身代わりの小屋

691 名前:本当にあった怖い名無し :2006/05/28(日) 20:00:59 ID:nEu8HA4P0
「……──あれ?」

気が付けば深い霧の中、見知らぬ小屋の前に立っていた。
何も特徴もない、バスの待合所のような粗末な小屋。
決して汚くはないが、経年による劣化は否めない。

真っ白な霧に覆われた世界で、そこだけが、ぽつり、と異界だった。

「……だ、誰か、いるのか?」
薄暗い入り口の奥から、男の声がした。
まるで何年ぶりかに出したような、かすれ震えた声だった。

「そ……そこに、誰かいるのか?」
恐れと期待が混じり合った複雑な感情が見え隠れする。
覗き込むと、小屋の隅に蹲る男の姿があった。

小屋の中は清潔──というよりも、ただ簡素な造り。
細長い三畳ほどの空間に、壁に沿って腰掛けがあるだけ。他に何もない。

そして、そこに座る男の姿は──異常だった。

ごく普通の──本当に何処に出もいるような姿の二十代の男性。
この小屋にも、ふらりと立ち寄っただけなのだろう。手荷物もない。

──なのに、どうしてだろう。男から発せられる雰囲気は異常だった。
まるで密林の奥、たった独りで何十年と過ごしてきたような飢餓感。
澱んだ瞳の奥に、爛々と輝く狂気の色があった。

思わず一歩、後退る。
その瞬間、男の目が大きく見開かれた。

「──行かないでくれっっ!!」

692 名前:本当にあった怖い名無し :2006/05/28(日) 20:01:59 ID:nEu8HA4P0
「あ……お、大きな声を出して、悪かった……」
男は繕ったように詫びを入れると、視線を彷徨わせ出した。
「こ、この霧だろ? 外は危ない。どうだ、話し相手になってくれないか?」
大げさなジェスチャーを交えた、不自然で不器用な誘い。
むろん乗る気になれず、入り口で待機する。

「な、なぁ、こっちに来てくれよ。大丈夫、何もしない。ちょっとでいいんだ」
男は自分の言葉の不自然さに気が付いていないのだろう。
立ち上がると、ふらふらとこちらに向かって歩いてきた。

入り口から一歩退いたところで、ぼうとその様子を眺める。
ひどく曖昧だった。──何が曖昧なのかすらも茫洋としていた。

男が手を伸ばす。ただそれを眺める。
触れようとする瞬間、その手が何かにぶつかったように不自然に止まる。
まるで小屋の入り口、内と外との境界に、見えない壁があるように。

「……あ。……い、いや、こ、これは違うんだ! そうじゃないんだ!」
男が狼狽しだす。知られてはいけない秘密を必死に誤魔化すように。

「な、中に来てくれ! 来てくれっ! 来い! 来いよっ!!」
既に形振りを構っていない。入り口の“壁”に手を突いて叫んでいる。
「出せっ、俺をここから出せっ! 出せよ、出してくれっっ!!」

──ようやく仕組みを理解した。これは怪談話のひとつ。


“身代わりの小屋”
──誰かを身代わりに入れるまで、自分が出られなくなる牢獄の話。

693 名前:本当にあった怖い名無し :2006/05/28(日) 20:02:59 ID:nEu8HA4P0
──そして僕は独り、小屋の中にいる。

不思議な小屋だった。
お腹は空かないし、眠くもならない。まるで時間が止まっているよう。
……いや、そうじゃない。

────ここは、時間が永いんだ。

1秒が1分に、1分が1年に──、いまこの瞬間が、永遠に感じられる。
これならば、数日──いや、数時間で気が狂うのも頷ける。

僕の前任者の事を思い出す。
あの男の代わりとなったのは、何日前だったか。

あの後──僕は喚く男を無視し、小屋の中へと足を踏み入れた。
男は呆然と僕を眺めていたが、急に我に返り、霧の中へと消えていった。

それ以来、ただ、時間だけが流れている。
粘性の高いぬるま湯に浸かっているような、不思議な空間。
狭く薄暗い小屋の中には、僕の他には、物音を立てるものは何もない。
小屋の外の霧は一度も晴れることが無く、一日中ぼんやりと光っている。

一度試しに外に出ようとしてみた。
案の定、入り口には見えない抵抗があり、それ以上先には進めなかった。

小屋の中では、何もすることがなかった。
だから、ただ隅に座り、延々と時だけが過ぎて行くのに任せていた。
小屋の中にある唯一の物品──それは同時に唯一の変化でもあった。
壁に掛かった日めくりカレンダー。気が付くと誰かによってめくられている。

今日で五日目────時間が、永い。

694 名前:本当にあった怖い名無し :2006/05/28(日) 20:04:53 ID:nEu8HA4P0
初めに人が来たのは、一週間後だった。
それまでの一週間は、体感的には何年、何十年にも感じられた。
もしカレンダーが無ければ、事実そう信じていただろう。

その人は、中に僕がいることに気が付かなかったのだろう。
隅に座る僕を見て、少し驚いたような顔をしたが、何も言ってこなかった。
──そして、数分後、何も言わずに外へと出て行った。

次に人が来たのは翌日だった。
彼女も、しばらく小屋の中にいたが、やがて去っていった。

その後も日に一度、人が来ては去っていった。

色々な人がいた。
男の人も女の人も。十代の人も五十代の人も。
中に入らずに去っていった人もいた。二日間滞在した人もいた。
話し掛けてくる人もいた。僕は何も答えなかった。

どの人も、どこか視線が茫としていた。
そして訪れたどの人も、ここへと戻ってくることは無かった。

気が狂いそうで、かろうじて保ち続けた細い糸。
それもう限界。ぷつり、といくのは今この瞬間か。

この小屋を過ぎ去った人数が百に届くかというころに

   ────彼女が訪れた。

695 名前:本当にあった怖い名無し :2006/05/28(日) 20:05:54 ID:nEu8HA4P0
「出て行きなさいよ」

開口一番に彼女はそう言った。
ちら、と顔を上げると、可愛いらしい少女が、不機嫌顔で立っていた。
いつも通り、何も答えずに顔を下げる。そのまましばらく沈黙が続いた。

「〜〜〜〜っ、出て行きなさいって言ってるでしょ!!」
再び顔を上げると、彼女が顔を真っ赤にして怒っていた。
何も答えずにいると、ずかずかとこちらに寄ってきた。

「アンタ、いつまでここにいるつもりよ!」
「……いつまでって──何で君はそんなこと知ってるの?」
数ヶ月ぶりに聞く自分の声は、どこか借り物のような不自然さがあった。

「もしかして、君がこの小屋の管理人さん?」
「その呼び方はどうかと思うけど、その通りよ。ここを支配してるのは私よ」
ようやく出会えた──不思議な感動があった。
「そんなことはどうでもいいのよ。早く出て行きなさい!」

「──それは出来ません」
少女は一瞬、面食らったような顔をすると、猛烈に捲し立ててきた。
「なにワガママ言ってるのよ! 出なさいって言ってるでしょ!!」
「スイマセン、出来ません」
いくら管理人さんの願いでも、そればかりは聞けない。

「何でよっ!」
「誰かを身代わりになど出来ないから」
「──────、」

“身代わりの小屋”
──誰かを身代わりに入れるまで、自分が出られなくなる牢獄の話。
──それは、たった一人の生け贄がいれば、すべて綺麗に収まる話。

696 名前:本当にあった怖い名無し :2006/05/28(日) 20:06:53 ID:nEu8HA4P0
「──なにそれ。罪滅ぼしのつもり?」
「…………」
参った──さすが管理人さん。入居者の履歴はご存じだ。

──分かっている。こんなことをしても、彼女は戻ってこない。
僕の代わりに命を落とした彼女──僕なんかのために、死んだ彼女。
命の重さは等しくない。命の価値は、決して同じではない。
皆から好かれていた彼女の命は、僕のよりも遙かに尊い物だった。

生き延びた僕──死んでしまった彼女。
それは決して僕などに償いきれる物ではない。
それでも、目の前にあるこの機会は、せめてもの罪滅ぼしに。

「それは逃げよ」
──知っている。僕は自分の罪から逃げているだけだ。

「それは自己満足よ」
──分かっている。それでも僕は、この罪に向き合う勇気はない。

「それは彼女への裏切りよ」
──その通りだろう。彼女はこのようなことを望んだりはしない。

「それは大きな誤りよ」
──それは……違う。
確かに僕の行動は、汚泥にまみれた醜いものであろうが──
僕がここにいることで救われる人がいる──それは確かな事実。

「それは大きな誤りよ」
「──違うっ! 間違いなんかじゃないっ!!」
耐えきれなくなり叫ぶ僕に、彼女は優しく微笑み言った。

「それは……アンタが生きていることは──罪なんかじゃないわよ」

697 名前:本当にあった怖い名無し :2006/05/28(日) 20:07:48 ID:nEu8HA4P0
「────え?」
ふっ、と、肩の後ろから、何かが気体となって抜けていった。

「生きていることは、それだけで尊い。人はね、いつでもやり直せるの」
「そ──そんなことはないっ! 僕のせいで、彼女は──彼女は……」

「黙りなさいっ!!」
「────っ、」
目の前の少女から発せられたとは思えない厳しい口調。
思わず固まってしまった僕を睨んでいた彼女は、ふと優しい顔に戻る。

「生きることは罪じゃない──」
先程の厳しい口調が嘘のように──まるで聖母のような口調。

「それに──死ぬことも罪じゃない──彼女を責めたらダメだよ」
「責め──?」
なにを言ってるんだ。
そんなこと……僕が彼女を責めてなんてこと………………ない?

「アンタは命の恩人を責めている。なぜ死んだのかと責めている」
優しい口調──厳しい詰問──真実の断罪。

ああ、そうだったのか。
ぼろぼろと涙が零れる。彼女のお葬式でも流さなかった涙が、止まらない。

「でも──それでもアンタに罪はない。感情は──罪にはならない」
想いは仕方がないこと。それは人としての業。人として逃れられない枷。

「でも──気付かなければいけない。いつまでも俯いていてはいけない」
目を逸らさず、前を向いて──歩き出さなければいけない。

「それが生きている者の義務。人は──歩き続けなければいけないのよ」

698 名前:本当にあった怖い名無し :2006/05/28(日) 20:09:08 ID:nEu8HA4P0
泣いた。泣き続けた。涙が止まらなかった。涙が気持ちよかった。
声を出し泣いた。彼女のために泣いた。僕のために泣いた。ただ泣いた。

僕は──生きていて良いのだ。

「罪悪感に捕らわれる必要も、無理して自己犠牲に興じる必要もない」
これだけ泣いても、目の奥から熱いものが溢れてくる。体の芯が熱くなる。
生きたい──そう思った。……しかし、

「────さて、と」
唐突に気温が下がった。唐突に涙が退いた。
唐突に──目の前の少女が悪魔に見えた。そして死を覚悟した。
思い出す。彼女はこの“小屋”の管理人。
先程まで高説を垂れていたが──彼女は“悪”とも呼べる存在である。

「さっきも言ったけど、アンタが生きていることは罪じゃない」
「……なんですか、改めて」
「でもね、アンタはこの小屋で罪を犯した。それも、とんでもない罪よ」
「罪って……僕はここに居座り続けただけですよ?」
自己犠牲は、美徳ではあれ罪とは成り得ない。──そう思う。
「勘違いの自己犠牲は、ただ迷惑なだけよ」
彼女の視線が冷たい。

「アンタのせいで、みんな帰っちゃったじゃない!」
「そ、それは君にしたら気にくわないかもしれないけど、僕は──」
「そういうのをね、余計なお世話、って言うのよ」
ぴしゃり一蹴。かなり堪える。それにしても、どういうことか。

「何かを勘違いしてるみたいだけど、ここはアウシュビッツじゃないのよ」
そう言って大きな溜息をひとつ。そして、やれやれ、というように──

「ここはね──生きる気力を失った人のための更生施設」

699 名前:本当にあった怖い名無し :2006/05/28(日) 20:10:11 ID:nEu8HA4P0
「更生──施設?」
「そうよ。何も意地悪や悪戯で閉じこめてるわけじゃないのよ」

「────え?」

「……やっぱり。私のこと、そういう風に見てたのね」
「え、あ、いや、ち、違います。違いませんけど、違います!」
「ふん、いいわよ別に。アンタにどう思われようが関係ないし」
そう言うが、ジトと睨む視線は明らかに不満そうである。

「でも、どうして? それに更生施設って……」
彼女はやれやれ、というように肩をすくめ、教師のようなポーズをする。

「いい? ここに来るのは、生きる気力を失った人だけ」
──ここを訪れた人々の、うつろな瞳を思い出す。
────そして、ここに来たときの、僕自身の気持ちを思い出す。

「ここで無為を知るから、何かをしたいと思うようになる」
──擬似的な死の体験は、裏返り生への渇望となる。

「ここで孤独を知るから、他人との繋がりが大事になる」
──人との繋がり、それはそのまま生きる活力となる。

「誰かを身代わりにした後ろめたさがある。だからその分、頑張ろうと思う」
どう、合理的でしょ? ちょっと荒治療だけどね。そう付け加える。
──ちょっとどころか、トラウマになってもおかしくない気もするが。

「じゃあ、僕のしていたことは」
「だから言ったでしょう。──余計なお世話だって」
ずん、と両肩が重くなる。良かれと想ってやっていたことが逆効果とは。
そんな僕の様子を見て、彼女はなぜか、嬉しそうに笑った。
──僕も、釣られて笑ってしまった。

700 名前:本当にあった怖い名無し :2006/05/28(日) 20:11:10 ID:nEu8HA4P0
「……管理人さんは、良い子なんですね」
「な、何言ってるのよ!」
真っ赤になった。リコピン豊富な真夏のトマトみたいになった。
爽やかな真夏の香りに、何となく、すっとした。
自分の意志であれ、永く閉じこもっていた鬱憤が、すっきりと晴れた。

「君は優しい子だけど、優しさが少し分かりづらいね」
「〜〜〜〜っ! あ、アンタが勝手に勘違いしていただけでしょ!」
「そうですね、スイマセン。ご迷惑をお掛けしました。もう行きますね」
勘違いが分かれば長居は無用。入り口に向かう。

「──もうやめなさいよ、罪滅ぼしなんて」
僕の背中に、彼女の声が降りかかる。

「……いいえ、止めません」
これからも──たとえ勘違いでも──他人のために尽くしたい。
──それは、僕の代わりに死んだ彼女のためじゃない。

「罪滅ぼしではありません。──ただの自己満足です」
「ふん、物好きね。そんなの、誰も認めてくれないわよ」

「それを言うなら、君だって同じでしょう?」
誰も認めてくれない。むしろ恐れ憎みさえする。
──それでも他人のために、その役を買って出る。
そんな少女に会ったから──僕もそう生きたいと思った。

「なに言ってるのよ」
嘲るように──勘違いかもしれないけど、ほんの少しだけ、嬉しそうに、

「──アンタが認めてくれたじゃないの」

なぜだか分からないけど、じん、と鼻の奥が熱くなった。

701 名前:本当にあった怖い名無し :2006/05/28(日) 20:12:04 ID:nEu8HA4P0
「──本当に迷惑を掛けて、スイマセンでした」
振り返り、彼女に礼をする。
彼女は笑っていた。
笑いながら、少しだけ──何かを堪えるように歪んでいた。
僕も目頭が熱くなり、それでも笑顔で別れたくて、精一杯、明るく努めた。

「これからも頑張ってください。それでは」
再び入り口に向き直り、一直線に向かう。
振り返ることはない。
生きる気力を貰い、生きる目標を貰い、新しい日々が始まろうと────


   ──── び た ん っ ! !


「──へぶっ!?」
入り口の“見えない壁”に思いっきりぶつかり、情けない声を上げる。
先程とはまた別の意味で、目頭が熱くなった。鼻がじんじんとする。

「え、あ、あれ? ちょ、ちょっと?」
振り返ると、彼女の姿は無く、どこからともなく、声だけがする。

「ここは“身代わりの小屋”。誰かが来るまで出られない。そういうルール」
悪戯が成功した子供のように、けらけらと笑う。
……先程の堪え顔はこれが原因か。

「あ、あの僕はもう気力も貰いましたから、っていうか、次の人って──」
「さあ、いつ来るのかしらね。来週か、来月か、十年後かしら?」
「ちょ、ちょっと、勘弁してくださいよ」

笑い声だけが響き、答えはない。
────さて、僕はいつになったらこの小屋から出られるのでしょうか。