100年分の痛み

559 名前:はじまり。 :2006/05/17(水) 19:59:30 ID:Hyva5BY70
「げ」
「あ?どした?」
「……」
「何?」
「やばいかな」
「だから何――ぁ。やばいんじゃね?」
「え?」
「やばいだろ。後ろ後ろ」
「何――」
「志村、後ろ」
「馬鹿」
「ごめ、おっ、先、逃げるわ」
「ちょっ、おい!…………あんだよぉ、っとに。後ろに何かあんの――」

――――。


560 名前:いち。 :2006/05/17(水) 20:00:15 ID:Hyva5BY70
「うは。まじやばくね?ここ」
「やばいだろー……。やばいって……」

……。

「なにビビってんだよ。やばいのがイイんじゃん。ほれ見ろ。こんな廃工場のど真ん中に石あるぜ」
「なんで石なんかあんの?まじ怖いよ……」

…………。

「おぅおぅ。ご丁寧にお札貼ってあるし」
「帰りたい……」

………………。

「なんか彫ってあるぞー?あ〜……比、蔭……沙、紀……?女の名前?お墓かなー、これは?」
「なにニヤニヤしてんだか。とにかく怖いって…………げ、」

――――。


561 名前:に。 :2006/05/17(水) 20:01:00 ID:Hyva5BY70
「ひっ……!!??」
振り返った途端、目に入ったのは真っ黒な人影。
その存在どころか、気配すら感じなかった。僕は、息を呑んだ。というか、息を殺してしまった。
棒立ちで、突っ立っているその人影。着ているものは白い――水色だろうか、暗くて色がよく分からない――、膝下まである丈の長いワンピース。
けれど、真っ黒だ。白から露出している腕や、脚。そして、顔。全てが、真っ黒だ。
肌が黒いのではない。
どんな腕をしているのか、細いのか太いのか。
どんな脚をしているのか、長いのか短いのか。
どんな顔をしているのか、見えない。真っ黒。表情どころか、顔が見えない。
その身体中を覆い尽くす長い髪に隠れている、だけか?
とにかく、黒、に多い尽くされている、その人影。尋常でない。有体に言えば、生きてない。
「ぃ……ぃ…………!!!!」
情けない悲鳴も上がらない。喉が、挫けてしまった。恐怖で。
僕が指一本も動かせないで固まっているところ、微かな……、
声?

……ォ、ォ……ォ――ォ…………ォ……。


562 名前:さん。 :2006/05/17(水) 20:01:41 ID:Hyva5BY70
目の前で立ち尽くす女性――ワンピーススカートだし、女性だろう?たぶん。何か聞こえてきた。
僕が凍っているように、彼女も一歩も動くことがない。ただ、直立したまま。音――声、か。
真っ黒は、真っ黒なまま、何も見つけられない。とても不安定。誰なのか。……これは、

泣いている?

……ォ――……ォォォォ……ォ、ォ、ォ……。

ォ――ォォォ……ォォォォォ……――ォォォ!!

オオオオォ……オオオオオオオオオ!!!!

泣いている、のか……。
僕は呆然としてしまった。人影、おそらく女性だろうが、それが、泣いている。
顔が見えない。口も見えない。この、彼女が泣いていると判断するのは、彼女から、泣き声が聞こえてくるからだった。
ぼんやりと、彼女の方から、低い、なのに甲高い、強烈な響きが聞こえてくるからだ。それが泣き声に聞こえる。
彼女から視線を外すことができない。怖い。
唐突に出現したことも怖かった、しかしそれはむしろ、驚きだ。
怖いのは。真っ黒な彼女が意味も分からず泣き続けていること。そしてその泣き声が、凄絶だから。
これ以上は、耐えられなかった。

僕は、気を失ってしまった。


563 名前:よん。 :2006/05/17(水) 20:02:21 ID:Hyva5BY70
背中が冷たい。キンキンしている。耳に、板敷きの上で砂を踏みしめる音。誰か、近づいてくるようだ。
静かだ。また一歩、砂を踏みしめる音。それ以外に何も聞こえない。しん、としている。
また一歩。一歩。一歩。
目が覚めた。うっすら。頭を下げた姿勢で、石碑に寄り掛かっている。脚が、見えた。
ぞっとした。真っ白。陶磁器みたい、そう思った。投げ出した僕の足元に、ほっそりとした陶磁器が二つ並んだまま。じっとしている。
「……」
顔を上げていいものか……。砂を踏みしめる音が消え、打ち捨てられた廃工場には、何もない。
まばたきを数度繰り返しても、彼女はそこを動かない。ちょっとがに股……。
靴なんて履いてたのか。小学生が履くような、布とゴムだけでできた、簡素な靴だった。
「……」
顔を上げて、みようか。待ってる、のかも。
ゆっくりゆっくり、視線を上げていく。
陶磁器のようなほっそりした両脚に、
白とも水色とも言えないような、淡い色をしたワンピース、
腰の辺りにようやくボタンが見えるような、シンプルなデザイン、
両腕も、真っ白な、細長い、水を含んだかのような長い長い髪が巻きついている、
胸元、小ぶりです……、
首はさらに白く、細い、
彼女と、目が合った。


564 名前:ご。 :2006/05/17(水) 20:03:02 ID:Hyva5BY70
強烈、
泣き声の比じゃない。く、とおかしな音をたてて僕の喉が鳴った。脳味噌が、停止、だ。
なんて顔してるんだよ……。
錆だらけの、何を製造するとも知れない機械に囲まれた薄暗い廃工場の真ん中で、女が立っている。
顔を歪めて。
最初に思いついたのは、これは泣き顔だろうか。いや……
そんなもんじゃない。そんな生やさしいものではない。泣き声は、凄絶だった。でもこの顔は、この顔は……何だ?
思いつかない。だから、
「なんて顔、してんの……?」
驚きとも、慰めとも、なんとも言いようのない、そのまんまの言葉が出てきてしまった。ぼて、と口から転がり出た。
彼女は、何も――動きもしない。黙って、顔を歪めている。
そのまま僕らはじっと見つめ合う形になった。僕が、彼女を見上げる形で。彼女が、僕を見下ろす形で。
見つめたまま、ぐ、と今度は唾を飲み込んだ。息をするのも忘れた。

気付かなかったのだろうか。ん、と手元に違和感を感じた。
お札。
背中を預けている石碑に張られていた筈の、お札。
友人――薄情にも彼は逃げ帰ってしまった――が石碑に刻まれた文字を覗き込んでいる間、僕はお札を突っついていた。剥がれちゃった訳だ。
はっと彼女の方に視線をやると、彼女は変わらず棒立ちのまま、泣いているのかどうなのかそれすら知りえない、顔を歪めている。


565 名前:ろく。 :2006/05/17(水) 20:03:42 ID:Hyva5BY70
お札、元に戻さなきゃ。
それと、
泣き声、だったからやっぱり泣いているのかな。

怖かったけど、
泣かせたまま突っ立たせておくのも、ね……。

恐る恐る、彼女の様子を窺いながら。じっと歪めている。じっと立っている。
石碑の元の位置にお札を貼り直す。
不思議に、ぺた、と貼り付いた。
ほ、と僕は安心した。そうしてから、またもや、恐る恐る彼女を振り返る。
「あれ…………?」
彼女はもう、いなかった。


566 名前:なな。 :2006/05/17(水) 20:04:22 ID:Hyva5BY70
「あの廃工場、こわかったなー」
「置いてけぼりにしたくせに……」
「ハハハ。お前本気でビビってんだもん。俺の迫真の演技でマジチビったんじゃね?」
「まさか……」
あの夜、友人は何も見ていなかったそうだ。後ろ後ろ、とか言ってたのは演技だった。
でも、僕が振り返ったときには――ホンモノ登場、と。
別段危害を加えられたわけでもなく、彼女は泣いていたようだし……。なんとなく、友人には、彼の迫真の演技から先のことを話していない。

さて……。
危害は、加えられなかった。怖かったけど。
だけど、呪われたような気はする。いや、嘘だな。魅了された、かな。
あの歪めた顔に魅了も何も無い気はするが、なんだ、あれだ、そのぉ……。
まぁ、気になるわけだ。あの夜から。あー……あの女性のことが。

じゃ、ま、そう言うことで、行きますか。廃工場。


567 名前:はち。 :2006/05/17(水) 20:04:55 ID:Hyva5BY70
あの夜と同じように、廃工場に忍び込む。忍ぶ必要も無い程、打ち捨てられてはいるのだけど。
今日は、一人だ。ま、当然か。
石碑。比蔭沙紀。それでお札。お札には「封」とか書いてある。お墓だかなんなんだか、分からないな。
「あのー、すみませーん」
呼び掛けてみる。しばらく、ぼんやりと自分の声が、天井の高い室内に響いた。返事は無い、か。
腕組みで思案顔などしてみる、が。どうしたものかね。
お札、剥がしてみる?
「……あの泣き声と顔を再現するのはなぁ」
神経、というか、命そのものが磨り減る心地だ。
「そういえば……」
彼女の素顔、見てないな。ずっと歪めてたし、な。ああ真っ白だと、な。ちょっと、わくわくしてしまう。
やっぱ呪われたんかな自分は、と苦笑。しかし、
「どうするかなぁ」
勇ましく乗り込んだはいいが、肝心の――そう、肝心の――彼女がいないんじゃなぁ。
やっぱり、
「剥がす?でもなぁ……」
あの凄絶な泣き声と、強烈な表情。嫌がってるようにも見えたしなぁ。
「うーん……」
考えを言ったり来たりさせていたところ、

なぁに?

そ、と声が聞こえた。


568 名前:きゅう。 :2006/05/17(水) 20:05:28 ID:Hyva5BY70
「え!?」
聞こえた!?今、声が!

なぁに?

やっぱり!!ころんころんと軽やかな声が、聞こえる。彼女、か。
「あ、あっあのっ!自分は、前、その、あれ……お札!剥がしちゃった馬鹿で、えっと!」
破滅的な自己紹介だった。後は、あの、その、えっと、だけ。段々と僕の声は消えていく。

ふふっ。

笑った!?おかしそうに。その、一言――にも満たない微笑む声――。簡単に僕は魅了された。
女の子に笑い掛けられてどきどきしたのは中学校以来じゃないか……。ちょっと恥ずかしくなった。
それでも何を喋ったらいいのか分からず、相変わらず僕は、えー、だか、あー、なんて。

また剥がしに来たの?

ころんころん。
うっとりしてしまう。この声は、魔物だ。でも、魔物でいい。ああ駄目だ、参ってしまう、この声。

また剥がしたら、殺そうかな?

はっと。ぞっと、した。でも、うたた寝でもしたくなるような、ころんころん。
「あ!いや!!そんなつもりは!!」
思ったくせに。我ながら安直な奴だ。


569 名前:じゅう。 :2006/05/17(水) 20:06:06 ID:Hyva5BY70
なぁに?

「え?」
何、とは?

何か用事?

…………。
惚れちゃいましたー、なんて。死直行、かな?剥がしたら殺す、とか言ってたし。正直に、
「えー、と。なんか、あー、また会って……みたくて、ですね」

ふふふっ。

うおわ!!駄目だこの声!!理性的になれない。耳に心地よすぎる。

幽霊を誑し込むの?

あ、やっぱり幽霊ですか。なんとなく、何故か、納得。
いやっ、誑し込む、なんて、つもりでは……なくて。

やらしい。

ころんころん。意地悪そうな声だ。あ、駄目だ。落ちた、僕。そして、落ちた男は、『押す』だけだ。


570 名前:じゅういち。 :2006/05/17(水) 20:06:41 ID:Hyva5BY70
「あのっ!会ってもらえませんかっっっ!!!」
我ながら、ストレート一直線だ。もう、『押す』しか……、

いい、です、よ。

「へ――」
ころんころん、今度はリズムをつけて。すんなり。あんまり簡単に了承が得られた。僕は意外そうな顔で呆然と、
石碑の後ろで、何かが形作られていく。するする、と陰から抜け出てきたかのように。あっという間に、彼女が、現れた。
「はい、こんばんは」
長い髪を一撫で。真っ白な顔を薄暗闇に輝かせ。ふ、と微笑む、彼女。
呆然としてしまった。あの、歪めた顔。成程。真顔は、笑顔は、こんな、か。
「へ、」
恐ろしい。これは、怖い。恐怖だ。とんでもなく、美しい。目も、鼻も、口も、涼しげに澄んでいる。濁りが無い。そのくせ、愛嬌のある笑顔で。ふ、と微笑んだ。
「さっきから、へ、へ、へ、って……やっぱりやらしい」
言葉とは裏腹に、表情に嫌悪感は微塵も無い。
「あ、え、こんばんは……?」
僕も、御挨拶。


571 名前:じゅうに。 :2006/05/17(水) 20:07:15 ID:Hyva5BY70
昔。稼動する工場。大勢の作業員。ごうごう、と機械の駆動する音。
所狭しと奔走する作業員。女性。美しい。大勢の男性作業員がちらちら窺っている。
視線にお構い無しに、額に汗を浮かべあっちにこっちに走り回る女性。
おっと。誰が仕舞い忘れたやら、作業用の小道具。彼女はそれに気付かず。ああ、足を掛けてしまった。
目の前には、

ごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごう

フル回転する鉄の塊。熱い熱い鉄板をもっと薄くするために、

ごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごう

彼女は身体のバランスを失って、頭から、

ごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごうごう

大騒ぎ。


572 名前:じゅうさん。 :2006/05/17(水) 20:07:46 ID:Hyva5BY70
静かな工場。
お祓い?石碑が誕生。お札まで?
化けて出たのかねぇ、綺麗な方だったがねぇ、残念だな、これあの娘のワンピース、お供えしとけ――
いろいろとコメントが。

いつしか誰も工場に来なくなって。
廃工場。
ぽつん、と。
ずっと。

誰か――――


573 名前:じゅうよん。 :2006/05/17(水) 20:08:24 ID:Hyva5BY70
「あのぉ。では何故、お札を剥がしちゃいけないんですか?」
目の前で、微笑を絶やさない彼女――沙紀さん――に聞いてみた。
「お札が剥がされちゃうと、痛い。ずっとずっと溜め込んだ分、痛い」
ふふ、と微笑んで答える沙紀さん。あの凄まじい形相と泣き声は、痛みの蓄積、か……。
沙紀さんが事故死されて、100年近く?ごうごうごうごう――なんというか、ごつい機械。僕らが腰掛けている――に突っ込まされる痛みの、100年分。それが一気に、襲ってくる、と。
「それは……痛かったですね。ご、ごめんなさい……」
思わずしょぼん、としてしまう僕に沙紀さんは、ふ、と笑っているだけ。
「だから、また剥がしたら、ね?」
逆鱗に触れる、と。殺されちゃうわけか。
「で?」
え?
沙紀さんが突然話を進め、面食らう。
「わたしと会って?」
沙紀さんと、会って……?
「え、と?」
どういう意味だろう?沙紀さんは呆れたような顔。微笑んだままで。
……こんな美人さんが僕の隣に座っているのは、想定の範囲外だ。等と分析の真似事を、
「ふふ?」
意味深に微笑む沙紀さん。僕は頭に疑問符ばかり。
「耳貸して?」
「え?はぁ……」
二人きりで内緒話は意味もない気がする。が、しばらく耳元で沙紀さんの、

ころんころん。


574 名前:じゅうご。 :2006/05/17(水) 20:09:26 ID:Hyva5BY70
「はっ!?!?」
「なぁに?いや?」
驚く僕の傍で、ふふ、と沙紀さんは変わらぬ微笑み。でも、頬は高潮している。
長い長い黒髪が、僕の肩に置いた沙紀さんの手にまで掛かっている。僕は、緊張した。
ぐ、と僕の肩を引き寄せ、沙紀さんが呟いた。
「生きてる女の子の方が、いい?」
ちょっと、これは……反則な微笑みだ。寂しげに寄り掛かってくるような微笑みじゃないか。
というか、まぁ、僕はもう、
『押す』だけ、ですから。止まりませんよ。
「いいえ。沙紀さんの方がいいです!」
馬鹿正直に自分は、と半ば呆れながら、僕は目を閉じた。
「そう。わたしの方がいいか……」
微かに微笑み混じりの声で――嬉しそうに――、じゃり、と砂を鳴らしながら立ち上がり、僕の頭を柔らかく抱え込んだ。

打ち捨てられた廃工場。錆だらけの機械の真ん中で。かつて余りに美しい女性を巻き込んだ鋼鉄の傍ら。
季節外れの涼しげなワンピース姿の女性が、
そっと男にキスをした。


575 名前:おわり。 :2006/05/17(水) 20:10:10 ID:Hyva5BY70
目を開けてみれば、沙紀さんの顔。変わらず、ずっと微笑んでいる。
「怖い……」
「わたし、怖い?」
「ビビっちゃう位、美人さん、ってことです」
「『ビビッチャウ』?」
時代が違ったか。苦笑してしまう。
沙紀さんは訳が分からないというふうに、ふ、と笑って。す、と音も無く跪く。
「頑丈だけが取柄のはずが、子供も産めません……ですが、精一杯尽くしますので、どうぞよろしくお願いいたします」
三つ指突いて、頭を下げる。
こちらも恐縮してしまい、慌てて土下座。沙紀さんが、にこ、と笑った。朗らかな。
「う、ん。じゃ、石、運んでくださいな」
沙紀さんとその痛みを封じ込めている石。これを持って帰る。僕の部屋に。
「うん。お、結構重い、です……」
「ふふっ。しっかり」
沙紀さんはよろける僕の傍にピッタリくっ付いて。
僕らは、家に帰った。


576 名前:おまけ。 :2006/05/17(水) 20:11:36 ID:Hyva5BY70
さすが、というか。
料理は、和食なら、なんでも作ってくれた。洋食は、あれだ、ビフテキとか?南蛮風?みたいな?
服のボタンでも解れていたら、甲斐甲斐しく縫い付けてくれた。その見事なこと。
部屋の掃除、溜まり込んだ洗濯まで片付けてくれた。時代、なのか。
いいよそんなことまで、なんて遠慮でもして自分でしようとしたら、
「胡坐かいてお茶でも飲んでて」
うむ、尽くしてくれる女性だ、等と。男尊女卑、なんてゼミで取り上げてたなぁ、なんて思いながら。
なんというか、良妻?ていうか、僕駄目人間?

ちなみに、友人――迫真の名演技――から貰った本、ビデオ、DVD、等。
「ふふ、ん」
謎の力がはたらいて炎上。炭も残らず消失。文字通り、消えた。ああ、なんて情けない声が出てしまったが。
「いらないでしょう、あんなもの」
そう言って、ごそごそ擦り寄ってくる沙紀さん――呼び捨てて、とは言われたが、まだ年上だし――を見ると、うんうんいらないいらない等と思う。

最近、沙紀さんは僕を名前で呼ばなくなった。
「今日は何がいいです?あなた」
割烹着を片手に、狭い台所に立つ彼女。その笑顔に、寂しさは微塵も無い。これでいい。