幻想

965 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/19(水) 04:12:39 ID:ORWHWXA+0
初めて彼女に会ったのは、まだ冬の寒さの残る三月のことだった。
桜の花弁が舞い散る夜の公園にひとり佇む彼女を見たとき、
私はその姿にすっかり心を奪われてしまった。

それから私は毎晩仕事帰りにその公園を通り、彼女の姿を見ることが日課となった。
彼女はいつも同じ桜の木の下で、ひとりで桜を見つめている。
なにをしているのか、なぜ毎晩そこにいるのか。
私には窺い知ることなどできなかったが、それでも彼女の姿を見ることができるだけで幸せだった。

私たちは決してお互いの領域に踏み込むようなことはなかったが、
それでもふたりの間には特別な関係ができあがっているような気がしていた。
例えて言えば、透明な糸で結ばれているような……、
もちろん私の思い過ごしと言われてしまえばそれまでだが。

しかし四月の声を聞いたある日、それが私の思い過ごしではないことがわかるときが来ることになる。

966 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/19(水) 04:13:23 ID:ORWHWXA+0
その日、私はある噂を聞いた。
あの桜が実は病気に罹っており、その発見が遅れたために回復の見込みがないこと。
そのため、そう遠くないうちに完全に枯れてしまうだろうということだった。
あの桜が枯れてしまえば彼女は哀しむだろうか。

その晩、私が仕事の帰りに公園に立ち寄ったときだった。
彼女はいつもの様に桜の木を見つめて佇んでいた。
この桜がなくなれば彼女とも会えなくなるかもしれない。
それは今の私にはとても耐えられるものではなかった。
私は少しでもいいから彼女との繋がりがほしかった。

「綺麗な桜ですね」

気付いたときには声をかけていた。
その場の幻想的な雰囲気がそうさせたのだろうか。
いつもの私では到底考えられないことだ。

「本当にそう思う?」

見ず知らずの男にいきなり声をかけられたというのに、
彼女は少しも驚いた素振りを見せずにそう言った。

「この木が花を咲かせるのも今年で最後よ。もう二度と会うことはできないの」

近くで見る彼女は大変美しい女性だった。
しかし、今の彼女はどこか愁いを帯びた表情で、
手を伸ばせばすぐに届くはずなのに、触れれば消えてしまいそうな儚さがあった。

967 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/19(水) 04:14:08 ID:ORWHWXA+0
「会う?」

「そうよ、いつも見てくれてたでしょう?」

やっぱり気付いていたのか。
いや、それよりももう二度と会えないとは……。

「貴方の気持ち、とてもあたたかい想いが伝わってきていたもの」

「いや、それは……」

あれほど彼女との繋がりを求めていたというのに、
いざ彼女を目前にして私はすっかり緊張してしまっていた。

「隠さなくてもいいのよ。それはわたしのせいなのだから」

968 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/19(水) 04:17:37 ID:ORWHWXA+0
彼女がなにを言っているのか、私にはさっぱりわからなかった。
私が彼女を愛してしまったことが、なぜ彼女のせいになるというのだろう?
まさか自らの美しさに自惚れているわけではあるまい。

「わたしたちに与えられた特別な力、一生に一度使える現の夢」

どういうことだ、彼女はいったいなにを言っているのだろう?

「人の心を惑わす幻想の力よ」

なぜ、そんなことを言うのだろう? そんなことを信じろというのだろうか?

「貴方がわたしを愛する気持ちは貴方のものではないの。
 すべてわたしが作り出した、偽りの感情なのよ」

彼女は私に背を向け桜の木にそっと寄り添う。

「ごめんなさい、貴方たちにこんなこと言っても信じられないでしょうね。
 このことは忘れて頂戴。そしてわたしのことも忘れるのよ」

ひときわ強い風が吹きすさび、視界のすべてを桜の花弁が覆う。

風が止んだとき、公園には私だけがひとり取り残されていた。
見上げた桜の木には先ほどまで咲き誇っていたはずの花が、
裸の枝だけを残して一枚の花弁すら残すことなく散ってしまっていた。

その夜を境に、二度と彼女は姿を見せることはなかった。

969 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/19(水) 04:18:44 ID:ORWHWXA+0
程なくして私は元の生活に戻っていた。
いつも通り会社に行き、仕事をして、帰って眠る。
そんな普段通りの生活の中で、私は時折彼女のことを考える。

あの時私が抱いた感情、そのすべては彼女が作り出したものだ、そう彼女は言っていた。
果たして本当にそうなのだろうか?
私のあの想いは精巧に作られた贋物に過ぎないのだろうか?

私はそうは思わない。
彼女の消えた今もなお残る、彼女に対する郷愁にも似たこの気持ちは、
決して作り物などではないと断言できる。

なによりあの夜、彼女が最後に見せた涙は、
彼女の隠し切れない想いの証だったと信じているのだ。