居場所

689 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/10(月) 01:30:03 ID:RU566hPk0
一人暮らし初日、シャワーを浴びようと風呂場のドアを開けると、

────先客が居た

さも当然のようにお風呂に浸かり、気持ちよさそうに鼻歌など歌っている。

薄い湯気の向こうの女性。入り口に背を向けていて、顔は見えない。
代わりに目に入るのは、濡れて艶やかに光る黒い髪だったり、
鎖骨のラインが眩しい白く細い肩だったり、お湯を梳く長い指だったり……

──そのどれもが、あまりに女性的で、
────そのどれもが、うっすらと透けていた。

侵入者に気が付いたのだろう、あれ、と言うように女性が振り向く。
ばっちりと目が合った。
女性というよりも、少女と描写したくなる顔が、きょとん、とする。
小さな顔に、猫のような黒く大きな瞳。線の通った鼻に、肉の薄い唇。
上気して淡く染まった頬に、濡れた髪の毛が一筋、艶めかしく張り付く。

「……あ、……えっ、と……」
どちらが発した言葉だろう──それ以上続かず、無言で見つめ合う。
時間が止まり、沈黙が流れる。処理量オーバーで脳がシステムダウン。
凍り付いた時間の中、唯一まともに働いているのは視力だけ。
振り向いた少女の細い首筋や、その下の緩やかな膨らみが視える。
その造形は美しくて、ほんのりと染まる肌は、お湯を弾く滑らかさ。

ぱさ、とタオルを取り落とす──それが状況打破の合図となった。

「──き……きゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

入居初日、男一人暮らしのアパートに、乙女の悲鳴が響き渡った。

690 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/10(月) 01:31:27 ID:RU566hPk0
「イヤぁぁぁぁっ! この痴漢、覗き、変態、出て行ぇぇっっ!!」

叫ぶ少女。風呂場にガンガン響く──いや、近所中に響いているはずだ。
このままではご近所様から通報されかねない。というか、される!
冗談じゃない。まだ敷金礼金を払ったばかりだ。退去させられて堪るか!
とにかく黙らせることが先決。口を塞ぐため少女に飛びかかった。
「きゃあぁぁぁぁぁぁっ、来るなぁぁっ! 出て行ぇぇぇっっ!!」
「うるせぇぇぇぇぇっ、出て行くかっ、ここは俺の部屋だ!!」

頭を押さえつけ、右手で彼女の口を────スカッ、

「…………え?」

──スカッ、スカッ、スカッ
少女をすり抜けて、空を切る両手。何度試してもすり抜ける。
冷静になる──と言うよりも血の気が引いていく。改めて少女を見る。
白い肌は、比喩ではなく透き通っていて、向こうの壁が透けて見える。
──そもそも何で少女が俺の部屋にいるのか。
鍵を閉めていたこの部屋に、彼女が入ってこれるはずがない。
少女も俺の様子に気付いたのか、叫ぶのを止め、状況を静観している。
脳裏にある単語が過ぎる。いやまさか。でも、そんな。うわ、え、おい……

「……──ぎゃあ゙あ゙あ゙ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

絶叫──直後、

   「  う る せ ぇ ぇ っ !! 」

──ドガンッ。隣の部屋から、怒声と壁を殴る音。
驚いた俺はバランスを崩し、湯船に頭から突っ込んだ。ぼっちゃーん。

691 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/10(月) 01:32:34 ID:RU566hPk0
「こっちを向いたら殺してやるからね!」
とりあえず一時停戦。狭い湯船に、背中合わせで座り込む。
背中合わせと言っても、寄りかかる先には支えがない。すり抜ける彼女。

「まず状況を確認しよう。お前は幽霊」
「まあ、そうね。いわゆる幽霊よ。──で、アンタは変態」
「まあ、そうだ──って、違うっ!!」

とりあえずあれから分かったことをまとめる。
 ・彼女は幽霊である
 ・彼女を触ることは出来ない(彼女からも触ることは出来ない)
 ・彼女の声は周りには聞こえない(彼女がいくら叫んでも隣人は無反応)
 ・彼女はすぐ怒る

「って言うか、何で一緒に入ってるのよ! 早く出て行きなさいよ!」
「嫌だ。ガス代、水代が勿体ない」
一人暮らしにあたり、節約のため、風呂はシャワーだけと決めていたのに。
なみなみと張られたお湯を使わないなど勿体ない。金を払うのは俺だ。
補足。彼女は何故か蛇口や湯船、お湯などお風呂関連の物は触れる。

「と言うか、ここは俺の部屋だ。むしろお前こそ出て行け」
「────っっ」
てっきり何かしらの反論が飛んでくると思ったが、息を飲んだまま黙り込む。
気になって後ろを振り向────!? ぶほっ!!

「こっちを見るなって言ったでしょ!!」
浴びせられたお湯に視界を塞がれる。鼻にも少し入ったらしく、つんと痛い。
「てめ、何しやがる!」
「────出られないのよ」
ぽつり、と呟くように。先程までとうって変わり、急にしおらしい声になる。

「──私、自縛霊だから、“お風呂(ここ)”から出られないの」

692 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/10(月) 01:33:46 ID:RU566hPk0
「…………ふーん」
なるほど大変なことだ。トイレにも行けない──って、行く必要ないのか。
「ふーん、ってアンタ、もっと他にないの?」
「他にって、例えば?」
「え、そりゃ……どうして幽霊になったのか、とか、どうしてお風呂に、とか」
「いや、別に興味ないし」
「────なっ!!」
別にウルサイだけで、実害は無いと分かったので、これ以上は気にしない。
「それとも何? 気にして欲しいわけ?」
「──なっ、ば、バカなこと言うんじゃ無いわよっ!!」

後ろで、ぎゃあぎゃあと叫ぶ少女を無視して、お湯を掬い、顔を洗う。
特に目元を重点的に。強く強く、擦るように、抉るように、掻き毟るように。
一刻も早く、網膜に染みついた“赤色”を洗い落としたい────

先程、お湯に視界を塞がれる寸前に見えた、彼女の“手首の傷”。
深く裂けたそれは、血こそ流していないものの間違いなく致命傷だ。
────いや、それが“致命傷”だったのだろう。

「……なんともベタだねぇ」
「ん、何か言った?
「いや──身体洗うから、あっち向いてて。見たいなら別に見てもいいけど」
「だ、誰がアンタの裸なんか──きゃぁっ! か、隠しなさいよ!!」

693 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/10(月) 01:35:04 ID:RU566hPk0
髪を洗う。剛毛なので、わしゃわしゃと力を込めて洗う。
「そんなにすると、髪を傷めるよ」
湯船の中から言う彼女に、ん、と生返事を送る。
洗髪中で目を閉じているので姿は見えない。気にせずに彼女は続ける。
「ねえアンタ、私のこと怖くないの?」
「どうして? 別に呪い殺したりするんじゃないだろ?」
「まあ、そうだけど……」
先程までの威勢は消え、妙に歯切れが悪い。気にせず洗髪を続ける。
「……私、ここに、いても……いいのかな?」
「いいんじゃねえの? って言うか、ここから出られないんだろ?」
「そうだけど──そうじゃなくて……っ、私、いてもいいの?」
「……何をそんなに気にしてるんだ?」
幽霊ってのは、もっと図々しい物だと思っていたのだが。
「……アンタの前にも、何人か入居者がいたんだけどさ──」
けど何さ。……まあ、妙に安かった家賃がその答えなのだろうけど。
「アンタだって、幽霊と一緒に暮らすだなんて、気味が悪いでしょ?」

シャワーでシャンプーを洗い流す。はぁ、と溜息を一つ。
「よく分かんないけどさ──お前、いろいろ考えすぎなんじゃないか?」
そうでなければ、自殺などするわけがない。
「もっと気楽に生きればいいじゃん──って、もう死んでるのか」
日々もっと楽に考えていければ、彼女だって今の状況にならなかっただろう。

──などと考えるのは、俺の勝手だろうか。彼女に対する侮辱だろうか。

「お前は自縛霊で、この風呂から出られないんだよな?」
「え、何よ急に改めて……うん……そうだけど?」
「ってことは、裸見放題じゃん。お前、性格はアレでも見栄えは良いし」
「──っっ!! このバカっ! 死ねっ!!」

しゅこーん、と軽やかな音を立てて、シャワーで殴られる。
音は軽いが、勢いの付いたプラスチックのヘッドの衝撃は、かなり痛い。

694 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/10(月) 01:36:29 ID:RU566hPk0
身体を洗い終え湯船に入る。先程とは違い、二人で横に並ぶ。
本来ならば脚を伸ばせるのに、わざわざ縮こまって座る。
本来ならば肩が触れあう距離なのに、肩に触れる感触はない。
────でも、彼女は今、俺の隣にいる。

照明を見上げる。居間の白色照明とは違う、柔らかな橙色の照明。
少女は隣で、ちゃぷちゃぷと水を弾いて遊んでいる。
何か言いたそうにしているが、同時に、決定的な言葉を恐れている。
だから、曖昧な先延ばし──その結果が、自縛霊という現状。
……もう、終わりにしてもいいんじゃないだろうか。

「……いてもいいのか、どうか、って話だけどさ」
あやふやに誤魔化した話を再開する。びくり、と隣で少女が硬くなった。

「いいとかダメとか、そういうの他人がとやかく言える物じゃないだろ」
「────っっ!!」

仮に言える奴がいたら、いったい何様だと思う。
隣で少女が更に硬くなり、俯いているのが視界の端に見える。
まるで何かに怯えているかのような態度を見て、溜息を一つ。

居場所というのは、誰かにもらう物ではなく、自分で作る物だ。
               ────などというのは、恵まれた者の意見。

隣の彼女は、決して弱かったわけでも、ましてや悪かったわけでもない。
本当にたまたま、ちょっとしたすれ違いで居場所を見失ってしまった少女。

「──でもまあ、今日からこの部屋は俺のモノで、いわば俺が王様だ」
この部屋に関する一切の権利は、大家さんを怒らせない範囲で俺にある。
だから、このくらいのことは、まったく問題ではない。至極簡単なことだ。

「その俺が認めてやる。好きなだけ、ここにいればいい」

695 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/10(月) 01:37:19 ID:RU566hPk0
少女は初めて見たときの、きょとん、とした顔をすると、
「──ああ、そっか」
大切な宝物を見つけたかのように、嬉しそうに笑い、

  ────私、ここにいても、いいんだね?

そう言い残して、すっ、と消えてしまった。
まるで初めからそこには、誰もいなかったかのように。
わずかな波紋だけが彼女がそこにいた証。
それもやがて収まり、静かな水面だけが残った。

居場所を認めて欲しかった。いてもよいと認めて欲しかった。
それが彼女の望みだったのだろう。この世に残した未練だったのだろう。

お湯を掬って、顔を洗う。誰もいなくとも、涙を見られたくはなかったから。





翌日

「きゃあっ、前くらい隠しなさいよ、このバカっ!!」
シャワーを浴びようと風呂に入ると、理不尽に怒られた。
一人で風呂に入るのに、わざわざ隠す奴なんているのか?

……って言うか、お前、何でまだいるの?
────いや、まあ、確かに好きなだけいていいと言ったけどさ。
胸を隠し、鼻の辺りまでお湯に浸かって、ぶくぶくとやっている彼女を見る。
思わず苦笑が漏れる。まあ、いいか。

「ほら、もっとそっちに詰めろ。俺が入れないだろ」