使用人
- 706 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/10(月) 15:29:50 ID:RU566hPk0
- 「旦那様、もうそろそろお休みにならってはいかがでしょうか」
温度も感じさせない冷たい声。
毎晩夜更けになると、私の部屋を訪れる。
またこいつだ。うるさい。邪魔だ。気が散るから出て行け。
研究中は勝手に私の部屋に入ってくるなと、いつも言っているだろう。
名前も知らない女を追い払う。
人の名前など、この世の真理に比べればどうでもよい。
どうせあいつもすぐに辞めるだろう。そうしたら代わりを探せばよいだけだ。
ふと、ペンを止める。
最近、あいつ以外の使用人を見ていないな。
……いかん、そんなことよりも。
再びペンを走らせる。
この世の真理を紐解くために、数式と向かい合う。
これさえあれば、私は他に何もいらない。
──ふと横を見る。
そこにはいつの間にか、良い香りを立てる紅茶が置かれていた。
その香りにに心を和ませる。荒んだ心が落ち着きを取り戻す。
そうだ、焦っても仕方がない。真理は逃げはしない。
紅茶を一口含むて、ゆっくりと数式を見直す。
そしてまた、ペンを走らせた──少しでも、この世の真理に近づくために。
- 707 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/10(月) 15:30:42 ID:RU566hPk0
- ……──いかん、眠っていたようだ。
いつから眠っていたのだろうか、窓の外は宵闇が支配している。
休んでいる暇など無い、一刻も早く、この世の真理を見極めねば──
いつものようにペンを走らせようとして、肩に掛けられた毛布に気が付いた。
…………けしからん
扉の外にいるであろう使用人を呼びつける。
案の定、すぐに扉が開き、控えていた者が出てくる。
「何でございましょうか、旦那様」
勝手に部屋に入ってはならんと、何度も言ったであろう。
「申し訳ございません、旦那様」
まったく感情の色を見出せない冷たい声。
その唇は青白く、微かに震えている。
──そう言えば、今晩はよく冷える。廊下など、さぞ寒かろう。
……紅茶を持ってこい。
それと今夜は空気が乾いている。
私はこれから研究の続きをする。
集中するあまり、火事に気付かぬやもしれん。
お前は暖炉の脇の長椅子で、番をしていろ。
「────、……かしこまりました、旦那様」
- 708 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/10(月) 15:32:35 ID:RU566hPk0
- 研究に行き詰まり、頭を抱える。
ペンを縦横に走らせるが、数式は一向に真理へと向かわない。
「旦那様、お休みになってはいかがでしょうか」
──うるさい、研究中に話し掛けるな。
「今夜の旦那様はお疲れのようです。お休みになってください」
うるさい、お前に何が分かる。
「……そう気負われていると、見える物も見えなくなります」
────っっ!!
だん、と机に拳を叩き付ける。
生意気なこいつは、眉を顰めることもせず、無表情で立っている。
──出て行け! この部屋から──いや、この家から出て行け!!
「かしこまりました、旦那様」
解雇宣告──にも関わらず、顔色一つ変えない。
一礼をすると、いつもの機械的な動きで部屋から出て行く。
最後に、音もなく扉が閉まる。それで終わり。
──そう言えば、今夜はまだ紅茶を飲んでいなかった。
- 709 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/10(月) 15:33:43 ID:RU566hPk0
- 酷く寒いことに気が付き、目を覚ました。
体の芯が凍えるように寒い。まるで氷柱が突き刺さったような寒さ。
暖炉の火は燃えさかり、肩には毛布が掛かっているに、この寒さは何だ。
急に部屋が広く感じた。
パチパチと、薪の燃える音だけが響く。
がらん、としたこの部屋で、私はいったい、何を探そうとしていたのだろうか。
机の上の紙に視線を落とす。
そこに書かれた数式は急に色褪せ、ただの模様へと変わり果てた。
確かにそこには、この世の真理へと続く道がある。
だが、私が欲しかった物は、本当にそこにあったのだろうか?
寒さに耐えきれなくなって、毛布を身体にきつく巻き付ける──
…………毛布?
──おいっ、そこにいるのか!
「はい、何でございましょう旦那様」
当たり前のように扉が開き、彼女が入ってくる。
相変わらず何を考えているのか読めない冷たい表情。
だが、彼女の姿を見た瞬間に、耐えきれぬほどの寒さが和らいだ。
- 710 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/10(月) 15:34:39 ID:RU566hPk0
- ──お前は首にしたはずだ。いつまでここにいる。
「申し訳ございません、旦那様」
悪びれる様子も、出て行く様子もない。
──私は出て行け、と言ったのだ。
彼女は、はい、と一礼すると──
「──それは聞けません、旦那様」
絶句する。まさか反抗されるとは思わなかった。
──なぜだ。なぜお前は出て行かない。
私になど仕えていても不快なだけだろう。
今までの使用人も、すべてそうだった。私の元から離れていった。
私はそれで構わない。私には真理を追究するという目的がある。
──だが、お前は違うだろう。
お前はここにいなくとも良いはずだ。
退職金ならば望むだけやろう。次の働き口が欲しければ紹介してやる。
お前は優秀な人間だ──もっと良い所で働くべきだ。その方がお前のためだ。
「お言葉ですが旦那様」
…………なんだ。
「ここよりも良い職場など考えられません。私は、旦那様を慕っておりますから」
- 711 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/10(月) 15:35:35 ID:RU566hPk0
- ……──何と言った?
「私は旦那様を慕っております、と申しました」
無表情のまま返す彼女。
「身分の違いは存じております。これは私の一方的な想いです」
無表情のまま、信じられないことを語る彼女。
「私は旦那様を慕っているのです。私は、ここに居てはいけませんか?」
それは今まで出遭ったどんな数式よりも不可解で、難題だった。
胸の奥でざわめく感情の名は、いったい何というのであろう。
彼女はいつもと変わらず、無表情のまま、すらりと控える。
それはいつもと同じはずなのに、その姿を直視できない。
どうしてよいか分からず、私は普段の反復行動をすることで逃げ出した。
──紅茶を、入れてくれないか。
「用意してあります」
慣れた手つきで茶器を扱う。流れるような動作。
琥珀色の液体がカップに注がれ、芳醇な香りが辺りに漂う。
「お待たせいたしました、旦那様」
- 712 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/10(月) 15:36:43 ID:RU566hPk0
- 差し出された紅茶を口に含むと、体の芯から暖かくなった。
ふっ、と優しい気持ちになる。こんな気持ちは、いつ以来だろうか。
急に、外に出たくなった。並木道を散歩したくなった。
あの森は、今も変わらず私を受け入れてくれるだろうか。
──私はもう休む。──だから、お前ももう休みなさい。
人形のように動かなかった顔に、初めて表情が生まれた。
注意してみなければ気付かないほどの小さな驚き──そして、
「かしこまりました。お疲れ様です、旦那様」
────笑顔
私は生まれて初めて、人の姿を美しいと思った。
そして、彼女は一礼をすると──、ふっ、と消え去った。
──ああ、やはりそうであったか。
そうなってからも私に使えてくれた彼女に、不器用なお礼の言葉を贈る。
今までありがとう。お前の入れる紅茶が好きだった。
──さて、私も眠るとしよう。
かたん、と机上にペンが落ちる。
傍らには、古いが品の良いティーカップ。
永いこと無人の洋館の一室、窓から朝日が差し込んでいた。