BAR

581 名前:BAR 1 :2006/04/06(木) 22:45:18 ID:Q2xOO/Xd0
かろん、とタンブラーの氷が音を奏でる。
「マスター」
彼女は空になったタンブラーを軽く持ち上げて、左右に振ってみせた。
「飲みすぎなんじゃないですか?」
「まだ3杯目よ」
私が心配しているのは、そういうことではないのだが。
そんな私の思惑をよそに、彼女はタンブラーを振り続けている。
「仕方ない。今夜はコレで最後ですよ」
私は肩をすくめながらそれを受け取ると、
棚から新しいタンブラーを取って氷を入れ、酒を注いで出した。
「ありがと」
―――店内は暗い。
光量を抑えたムードライドが、カウンターをほのかに照らし出している。
まあそれは当たり前、ここはBARだ。
静かに、優雅に、夜に酔うための場所である。
私はこのBARのマスターなどをやって、糊口をしのいでいる。
店内の客は、彼女ひとりだ。
これは、決して私の店が流行っていないからというわけではない。
いや、確かにカラオケもないし中は狭いし、わずかな常連さんぐらいしか
めったに訪れないのだけれど。
ふと彼女のほうに目をやると、すでに酒は半分くらい無くなっていた。
「はぁ………」
彼女はタンブラーをコースターに置いて、大きなため息をついた。
「いいかげんに、吹っ切ったらどうです」
「………何の事よ」
「わかっているでしょう。彼のことですよ」
「別に、あたしはアイツのことなんか気にしてないわ」
「じゃあ、なんで今日もこうやって待ち続けているんです。
 とっくに閉店時間はすぎているんですよ」
「待ってなんかいないってば。あたしはただ、
 お酒が飲みたいからここに来てるの」

582 名前:本当にあった怖い名無し :2006/04/06(木) 22:47:05 ID:Q2xOO/Xd0
「………じゃあ、質問を変えましょう。
 なぜあなたは、そのお酒しか飲まないのですか?
 あなたの好みは、本当はもっと強いお酒でしょう」
「………」
「彼が、きっと君も気に入ってくれると、
 すすめてくれたお酒だからではないですか?」
「うるさいわね。グラスでもみがいてなさいよ」
強引に話を断ち切ると、彼女は酒をくいっ、とあおった。

―――あの夜のことが、脳裏に蘇る。
実直そうな青年と、この女性が並んでカウンターに座っていた。
青年と女性の会話は、まるで説教のようだった。
はたからすれば、ば、青年の言葉をにべもなく切り捨てる彼女は
さぞ冷徹に見えたことだろう。
「でも、こういうお酒だっておいしいんですよ」
「あんた、そんな甘いのはお酒って言わないの。
 男だったらもっと強い奴が飲めなきゃだらしないわよ」
「きっとこれなんか、先輩も好きな味だと思うんですよね」
「………ふん、まあまあね。
 でもねえ、これやっぱりちょっと甘すぎるわ。
 あんたやっぱり酒に関してはダメね」
始終強気な女性だったが、そのきつい言葉の端々に、
青年への好意をのぞかせていることに私はちゃんと気づいていた。
―――それからしばらく経った、雨の夜。
相変わらず閑古鳥の鳴く店内に、青年が独りで訪れた。
彼は暗い表情のまましばらく酒を嘗めていたが、やがて重い口を開いた。
「マスター。先輩、死んじゃったんです。
 ―――交通事故です。
 あんなに強そうだった先輩があっさり死んじゃうなんて、
 いまだに信じられません。
 ………好きだったのに!
 先輩のことが、好きだったのに………!」

583 名前:BAR 3 :2006/04/06(木) 22:51:40 ID:Q2xOO/Xd0
店を出る際、彼はこうつぶやいた。
「ごめんマスター、僕、もう来ないかもしれません。
 ―――思い出してしまって、つらいんです」

「………本当は、気づいているんじゃないですか」
彼女は、大きなため息をつくと、―――苦しげに、ひとつ頷いた。
「わかってたわよ。本当に、おせっかいなマスター」
苦笑いする彼女の頬を、つう、と涙がつたう。
「とっくにわかってるわよ、もうアイツとは逢えない事ぐらい。
 だからせめて、酔っ払って吹っ切っちゃおうかと思ったんだ。
 でも―――酔えないのよ、このお酒。
 いくら飲んでもぜんぜん酔えやしない。甘いうえに弱いのよ。
 まるでアイツみたいで―――」
言葉を詰まらせると、彼女はカウンターに突っ伏してしまった。
「あたしだって、好きだったわよ―――」
くぐもった声が、漏れた。
私は、彼女がいつも好んで飲んでいたお酒をワンショット、
カウンターにコトリと出した。
「え?………マスター?」
呆然と顔を上げて、不思議そうにする彼女。
「気の済むまで飲んで泣いて、吹っ切っちゃいましょう。
 ―――お酒を飲むというのは、そういうことでもあるんですよ」
ふふ、と彼女が笑う。ああ。この気丈な笑顔は、とても彼女らしい。
「ありがとうね、マスター。乾杯、してくれる?」
「喜んで」

ここはBAR。
さまざまなお酒と、お話と。
出会いと別れが、生まれては消えていく場所。

END