自慢の髪

430 名前:420 :2006/04/02(日) 14:49:09 ID:SmllTFx10
電波の調子がよくないので、連投失敗を回避するため
うpロダにあげることにしました。
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Passはtundere

このスレの繁栄のこやしになれば幸いです。
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「………いる、な」
立て付けの悪いドアを開けて、一歩中に踏み込んだ瞬間。
馴染みの深い、『あの感覚』が体中を走り抜けた。
―――くそ、ついてない。
やっとのことで俺の貧しい財政事情にかなう安物件が見つかった
と思ったらコレだ、本ッ当についてない。
できればこの場で180度方向転換して帰りたいところだが、
そうなると俺は星空の下で寝泊りしなくてはならなくなるだろう。
最近はだいぶ春めいてきたが、それでもまだ夜は寒い。
東北をなめるなかれ、3月になっても駅で凍死するホームレスがいるくらいなのだ。
こうして躊躇している間にも、冷たい風が吹きつけて容赦なく俺の体温を奪っていく。
観念してドアを閉めた。それと同時に、ドアからわずかに差し込んでいた夕暮れの明かりが消え、
薄暗い室内がぼんやりと浮かび上がる。
―――それと同時に、『あの感覚』も少し強くなる。
普通こういうアパートの部屋というものは、少しくらいは前の居住者のにおいというか、
誰かがここで生活していたのだと思わせる温かみのようなものが残っているものだが、
それがここには全く感じられなかった。
もう長い間生活空間として使われていなかったであろうこの1LDKに、
薄く引き延ばしたような『あの感覚』が充満している。
正直嫌な予感しまくりである。だがしかし、すでに金は払ってしまったのだ。
故にこの家の主は俺!! ここで引き下がるわけにはいかないってもんである!
意を決し、俺はリビングルームに通じる引き戸を開け放つ―――!

瞬間。

呼吸を忘れた。

夕暮れの光に満ちたリビングに、美しい少女が佇んでいたからだ。

年の頃は15,6といったところか。
腰辺りまですらりと流れ落ちる緑髪にふちどられた、儚げな横顔。
小柄で透き通るように白い肌を包むワンピースはこれも純白で、
長い髪と相まって嘘みたいに似合っていた。
幽玄の―――美しさだ。
それなのに。
こんなに奇麗なのに。
『あの感覚』は、明らかにこの少女から発せられていた。
「あ―――」
思わず声が漏れる。
それが聞こえたのか、少女の頭がゆっくりと動いてこちらを向き、視線が、

「―――けっこう、いい部屋だな」
交錯する前に、俺は視線を外してつぶやいた。







向こうのモノには関わらないのが一番―――。
それが、俺の生きてきた中で得た教訓のひとつだった。
昔から「視える」性質だった俺は、この性質のおかげでなかなかに苦労させられた。
親は病院へ行こうと騒ぎ立てるし、友人達はヘンな奴だと敬遠する。
そしてなによりも、なにかとちょっかいを出してくる
「向こうのモノ」に一番苦労させられたのである。
何しろあいつら、自分の姿が俺には見えるのだと気づいた途端に
猛烈なアプローチをかけてくるのだ。
どんなことをされるか分かったものではない。
襲われかけたこともあるし、延々つきまとわれたこともある。
夜通し愚痴られたこともあるし、無理難題をふっかけられたこともある。
生きているものの常識が通用しないので、明らかにこちらの分が悪い。
そんな経験から、俺は『向こうのモノ』は極力無視しようという結論に達したのだった。
そうでもしなければ、とてもじゃないが気力がもたない。

だから、眼前の少女がいくら美しくて無害に見えたとて、
彼女が向こうのモノである以上は関わってはいけない。
前、とても品のよさそうなお婆さんの霊から始終丁寧に「私を殺した男を殺して欲しい」と
せがまれ続けたことだってあるのだ。
こちらから声をかけるなど言語道断、もってのほかである。
そんなわけで、俺は何もヘンなものなど見なかったということにして荷物を解き始めた。
徹底的に無視して、あっちが愛想をつかして何も干渉してこなくなれば上々だ。
幽霊憑きだろうがなんだろうが、今の俺には住居がどうしても必要なのである、うん。
横目で少女のほうを伺うと、なにやら獲物を見つけたネコのようなまなざしで、
じぃーーっ、とこちらのほうを観察している。
ものすごく気になるが無視する。
ほどなくして荷物を解き終えた俺は、とりあえずテーブルの前にどっかりと座り込んだ。
その間にも、少女は長い髪を揺らしながら踊るように俺の周りをくるくると歩き回り、
何度も何度も俺の視界を横切っては消えていく。
気を抜くとその姿を目で追いそうになるが、ぐっとこらえて無視する。
………針のムシロとは、こういうことをいうのだろうか。
なんだか、いままで付きまとってきたどのモノよりも気になってしょうがない。
最近は、どんなものが寄ってきても空気のように無視できるようになったと思っていたのに。
たまらなくなって、目を閉じてテーブルに突っ伏する。
しばらく視界を閉ざして落ち着こう。そう考えた矢先に、
「ねえ」
耳元で声がした。
(………ッ!)
心臓が飛び出るほど驚いたにも関わらず、声ひとつあげず、身じろぎもしなかったことを褒めて欲しい。
少女はいつのまにか、えらく近いところまで接近してきていたらしい。
「私の声、聞こえるの?」
よくできた硝子細工を思わせる彼女の声が、明らかに俺に対しての言葉を紡ぐ。
「ねえ、ってば」
声がさらに近くなる。

うなじをさわり、と何かが撫でる気配。彼女の髪だろうか。

「ねえ―――本当に聞こえないの? こんなに近くでしゃべってるんだよ?」

耳に、あるはずのない吐息を。
感じた気がした。

「………やっぱり、聞こえないのか。この、鈍感」
残念さがわずかに含まれたその台詞を最後に、彼女の気配がすっと遠のいた。
どうやら―――気づかれずにすんだようだ。
というか、マジでヤバイところだった。
あれ以上なにか囁かれていたら、きっとなにかボロを出していたのは間違いなかったからだ。
平静を装いつつ、うーんとか唸りながら身体を起こす。
視界の隅に、テーブルに肘をついてつまらなそうにしている彼女の姿が見えた。
「ほんっと、鈍感ねコイツ。きっと霊感なんてゼロどころかマイナスなんだわ。
 こんなに鈍感だと、彼女なんて絶対出来ないだろな。甲斐性なし」
ため息をつきつつ、そんなことをのたまいやがる。
カチンと来た。聞こえてないと思って、好き放題言ってくれるなコイツは。
「あー、なんだろ。ものすげぇオバサン声が聞こえた気がするけど、空耳かな。
 水でも飲も」
絶対関わらないって決めていたのに、ついそんなことをひとりごちて反撃してしまった。
「なッ―――」
まさか、独り言で反撃されるとは思ってもいなかったのだろう。
目を白黒させる彼女を尻目に流し台のほうに歩く俺の背中に、
「し、失礼ねこの鈍感男!ひとりごとなんか言っちゃってネクラなんじゃないのッ!!」
物凄い罵声が浴びせられた。

思うところはあったが、これ以上応対するとさすがにバレるので、
コップの水と一緒にそれを飲み下した。





「はあ………テレビぐらい買いなさいよ、このネクラ鈍感甲斐性なし」
少女のひとりごとを華麗に聞き流しつつ、文庫本の頁をめくる。
引っ越してからはや二週間が経とうとしている。
慣れというものはすごいもんだな、と改めて実感する。
朝から夕暮れまでバイトをハシゴして帰ってくると、
少女が部屋を好き勝手にうろつきまわりながら俺の悪口をひとりごちているという、
この奇妙な環境に俺はすっかり順応していた。
被害らしい被害といえば、たまに心にクリティカルヒットする悪口があることとか、
たまにずいっ、と顔をのぞきこんできてどうにも困ったりすることとか、
着替えるときに少女が顔を真っ赤にして顔を背けるので、こちらも少々気恥ずかしいことぐらいである。
物理的な被害はまったくないし、外までつきまとわれることもない。
どうも、彼女はリビングからは出られないようだ。
俺が存在を認識しながらも無視しているということに、まだ少女は気づいていないようである。
のにもかかわらず、ロクに反応も示さない俺のいるこの部屋をどうして去らないのかが謎ではあった。
それどころか、俺が買ってきたポケットラジオから流れる音楽に合わせてステップを踏んだり、
調子はずれで歌ったりと賑やかなことこの上ない。
彼女も彼女なりにこの環境に順応しているのだろうか。
………ラジオとかの電化製品って、霊の近くじゃ使えないんじゃなかったか?
(もしかして、場所から離れられない類のモノか………?)
いわゆる地縛霊とか、そういう。
お行儀悪くタンスの上で足をプラプラさせながら、
自分の髪を手櫛で梳いている彼女を視界の端に収める。
彼女も、何かの因果に縛られているのだろうか?
―――あんなに、奇麗なのに。
(………いや)
そんなことを考えるのはやめよう。
俺は拝み屋ではない。
そもそも、俺はこういったことに深入りするとロクなことが無いと、
身にしみて分かっているはずではなかったか。
こちらと向こうの世界は、深く交錯するべきではない。
俺は文庫本に栞を挟んで閉じると、ポケットラジオを消してベッドにもぐりこんだ。
「あ、もう寝るんだ………やだなあ、暗いなあ」
暗いのを嫌がる幽霊があるかよ、と心の中で苦笑しながら、電灯につけた延長ロープを3回引っ張る。
パチパチパチン、という音と共に、部屋の照明が窓からの月明かりのみに切り替わる。
「あう………この、甲斐性なし」
そうつぶやくと彼女は、タンスから飛び降りて窓のそばに立った。
外の風景を眺めているらしい彼女の身体を、月明かりはすり抜けていく。
やはり幽霊は眠らないのだろうか?
そんなつまらないことを考えながら、俺は意識を手放した。


ふと。
いままでになく強い『あの感覚』で眠りから引き起こされた。
目を開けずに、そのままベッドの中で周囲を窺う。
(―――近い)
かなり近い。何かが、覆いかぶさっているような感じだ。
あの少女だろうか?
なにを、するつもりなのか。
あれこれ逡巡している間にも、じわりじわりと感覚は強くなってくる。
さらに距離を詰めているのだ。
油断していた。
今まで物理的な被害がなかったからといって、俺はあまりにも無防備すぎたのではないか?
向こうのモノには、気づいて欲しくて過激な接触をしてくるモノだっているのだ。
こちらが気づいていようがいまいが、お構い無しに厄を運んでくるようなヤツが………!
しかも、今感じられる『あの感覚』はいつものよりピンと張り詰めたもの。
向こうのモノの感情が、特に昂っているときに感じられるものと同じだった。
このままでは、首のひとつでも絞められるんじゃなかろうか。
(なんだか知らんが―――まずい!)
たまらず目を開けたその瞬間、

「「あ」」

なんだろう、これは。
いままで視界の端にしか収めたことの無かった美しい顔が、俺の視界を覆っている。
わずかに紅潮した頬を伝って流れ落ちる緑髪が、ふわりと俺の首筋に触れている。
彼女の濡れた瞳が、俺の瞳と―――交錯した。

ええと、つまり。
彼女が寝ている俺に覆いかぶさって。
顔をこんなに近づけてるってことは。

「わ―――うわぁぁあッ!!!」
脳が結論を出すよりも早く、俺はベッドから盛大に飛び上がって転げ落ちた。
彼女はというと、両手で口元を押さえて目を見開いている。
「おま、お前、寝てる俺に何をッ!?」
「あな、貴方、私が見えてるのッ!?」
二人して、まったく同じタイミングでびしっと相手を指差したりする。
「なんでこんな時に見えるのよ!? やだもう、信じらんないこの甲斐性なし!!」
「そらこっちの台詞だ! いままでふらふらしてただけのクセになんで今日に限ってこんなこと………!」
「なんですって―――え?」
「―――あ?」
………あ。やらかしましたか俺?
なんか、いたたまれない沈黙が場を支配する。
「も、もしかして、貴方最初ッから見えて、き、聞こえて―――」
震える声を絞り出すにつれて、彼女の顔が暗い室内でもわかるくらい紅潮していく。
「わ、私がラジオに合わせて踊ってたのも見てた?」
こくん。彼女の鬼気迫る表情に気おされて、つい反射的に頷いてしまう。
「合わせてう、歌ってたのも!?」
こくん。なんか、『あの感覚』がさらに危険な感じを帯びてくる。
「じ、じゃあ、あのそのじゃあ、貴方が越してきた日のことも―――」
どくん。
―――今度は、俺の顔が真っ赤に染まる。
それを肯定と受け取ってか、彼女は真っ赤な顔を伏せてぷるぷると震え始めた。
『あの感覚』がびきびきびき、なんて音が聞こえそうなくらいにまで張り詰めていくのが分かる。
ああダメだ。もう俺、ここで殺されるかもしんない。
向こうのモノをここまで怒らせて、無事でいれるわけが無い。
さやうなら父さん母さん、貴方の息子はたぶん原因不明の心臓麻痺とかでこの世からグッバイ3秒前。
ああでもこんなきれいな少女にとり殺されるというのも案外ロマンチックかも―――
「うにゃあぁあああ―――!」
そう、うにゃあぁあああ―――って、は?
謎の奇声に驚いて顔を上げると、
そこには少女が頭を抱えながらリビングを転がりまわる、なんとも奇妙な風景があった。
どたばたどたばた、と轟音が聞こえてきそうなその転がりっぷりは、しかし無音だった。
どうもコレは………恥ずかしさに耐え切れずに身もだえしているように見えるのだが。
そんなことを考えている間にも、少女はきゃー、いやー、ばかー、などどわめきながら、
リビングを転がりつづけている。もしかしたら新手の霊障攻撃か?
あ、床に突っ伏して動かなくなった。
「ええと………もしもし?」
遠慮がちに声をかけてみちゃったりなんかして。
「もしもしじゃないわよこのヘンタイネクラ鈍感甲斐性なしぃ!」
がばっと起き上がって、瞳に涙をいっぱいためて激しく遺憾な暴言を吐く少女。
「気づいていながら黙ってるなんて卑怯よ! 貴方にはデリカシーってものが無いの!?
 年頃の女の子の私生活覗き見てるのとおんなじじゃない!!」
「なっ―――それを言うならお前だってそうじゃないか! 気づいてないと思って人の部屋で
 好き勝手にふらふらして暴言吐いて! この部屋の主は俺だぞ!!」
「私だって好きでこの部屋にいるわけじゃないわよ!」
「ああそうかい! そんなら出て行けよッ!」
! しまった!
「―――………ッ!」
彼女の身体がこわばった。
今までの怒りの表情が、あれよあれよという間にくしゃくしゃに歪んで―――
「出てけるものなら―――出てってるわよぅ………!」
瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
「しかたないじゃない―――! 私だってこんなふうになりたかったわけじゃない―――!」
ああ―――泣かせてしまった。
彼女の瞳から落ちるいくつもの涙は、カーペットの上にしみを作―――らなかった。
「………すまん。言い過ぎた」
そう謝ってみたものの、へたり込んでしゃくり上げる彼女はしばらくは泣き止みそうに無かった。
困ってふと上げた視線に置時計が入る。時間は、午前1時ちょっと過ぎ。
ほら、やっぱり。
関わるとロクなことにならない。

午前1時30分ちょい前。
なだめたり、すかしたり、謝ったりを繰り返して、
ようやく少女が泣き止んでくれた時刻である。
もう完璧に深入りしているな、と自分でも思う。
だけど、女の子にベッドの横でわんわん泣かれているのに眠れるような図太い神経は、
残念ながら俺は持ち合わせていなかった。





「すると、こうなる前の事はよく憶えてないと?」
「うん………気づいたら、この部屋にいた」
俺の問いに、彼女はこくんと頷きながらそう返した。
ううむ、と唸りながら、俺はコーヒーに口をつけた。
あれから。
悪かったわよ、いや俺のほうこそ悪かった、というやり取りの後、
話題は自然と少女―――梢というそうだ―――の素性の話になった。
梢は、気づいたらこのアパートの一室におり、
おそらく自分がかなり昔に死んだのであろうということと、
自分の名前が梢であることは憶えている。
しかしどういったいきさつで死んだのか、なぜこのアパートの
リビングから出られないのか、まったくわからないという。
「何か………何かを見つけなくちゃならないような、
 そんな感じがうっすらとはあるんだけどね」
俺のコーヒーカップから立ち上る湯気をぼんやりと見つめながら、
梢はつぶやく。
何が心残りでこの場に縛られているか。
それも彼女は忘れてしまっているということか。
「だから私、何とかできないかと思って、
 ここに引っ越してくる人に何回も話しかけてみたんだけど、
 ………やっぱり、私の声、聞こえないみたいで。
 それで、しばらくすると何か怖い、気味が悪いっていって………
 また引っ越していっちゃうの」
前の住人たちが感じた気味の悪さというのは、
おそらくこの部屋に常にある『あの感覚』のことだろう。
俺みたいな性質を持っていない人間にも、無意識のうちに
そういうものがわずかに感じ取れると見える。
普段感じることのない違和感に耐え切れず、住人たちは次々に
引っ越していったのだろう。
「それで、しばらくしたら引っ越す人もぜんぜん来なくなっちゃったのよね。
 ま、あたりまえか」
噂が噂を呼んで、ついには入居希望者もいなくなったか。
そこへ、郊外から流れてきた俺がまんまと大家にだまされたってワケだ。
………あのババア。
「そこに貴方が来たのよ。ダメもとで一応話しかけてみたけど、ぜんぜん反応しないから
 コイツもダメかと思った。………演技だったわけだけど」
梢がジト目で俺をねめつける。
「だから悪かったって」
「もういいわよ。―――けど、貴方は他の人と違ったわ。
 気味悪がるどころか、全然普通に生活してるんだもん。
 おまけにいま目の前に幽霊がいるって言うのに平然としてるし。
 なんだか、逆に調子狂うわ」
「まあ、な………慣れてるから」
昔から向こうのモノと隣りあわせで過ごしてきたせいというか、おかげというか。
「それに」
「何よ」
「いや、なんでもない」
それに。
白状すれば、俺はかつてなかったこの奇妙な同居生活に心地よさを感じてもいたのだ。
その時点で、コイツと深く関わってしまうことは決まっていたのかもしれない。
―――口が裂けても言わないが。
「なによ、言いかけてやめるなんて変なの。それに、なんなのよ」
「なんでもないって。それより」
「それより?」
「お前、アレはなんだったんだよ」
「アレって何よ」
「ほ、ほら。俺に覆いかぶさって―――まるでその」
いかん。強引に話題を逸らしたつもりが、俺まで顔が赤くなってくる。
「え―――」
だが、梢は俺の倍速で顔を紅潮させたかと思うと、ばんっ!
と音はしなかったが、テーブルに手を叩きつけて、
「あっ、アレは違うわ勘違いしないでよ! その―――
 貴方、いつも死んでるみたいに眠るじゃない! だから、ほら、
 ホントに息してるのか心配にな―――
 じゃなくて心配なんかしてないわよただちょっと気になっただけなのッ!!」
物凄い早口でまくし立てる。そうか、俺って死んだように眠るのか。
呆然としている俺に、もう一度音もなくテーブルを叩きつけて、
「いいわねっ! そういうことだから!」
と、ぐいっと顔を寄せながら、そう結んだ。
「は………はいわかりました」
かくかくと頷く俺。
くう、なんで敬語なんだ俺。
「そ、それはそれとしてだ。これからについてだけど」
「これから?」
横を向いてむすっとしている梢が、髪を揺らしてこちらに向き直る。
「そう、これから。お前、心残りの手がかりを探したいんだろ?」
「それは確かにそうだけど。て、え、もしかして………」
「ああ。バイトの合間にでも、俺も探してみるよ。ダメ元でいいなら」
ここまで関わってしまったからには、やはりこうせざるを得ないだろう。
梢はしばらくぽかん、とした後、またぐいっと顔を寄せてほんとうに、とつぶやいた。
どきり、とした。
彼女の吸い込まれそうな黒い瞳が、またも俺の瞳と交錯する。
後戻りのできないような予感じみた感覚が体を走り抜ける。
そんな心中を梢に気取られぬように、努めて冷静に。
「―――ああ」
と、軽く頷いてみせた。
梢はゆっくりと乗り出していた身体を戻すと、うつむいて、小さな声で、
「―――ありがとう」
そう、つぶやいた。
室内にしばらく沈黙が降りる。
「ま、そういうことだから。俺は寝る」
「あ………うん」
沈黙をみずから打ち破って、俺は立ち上がってベッドに向かった。
時刻は午前3時を少し過ぎたところ。
明日は少々つらい目覚めになりそうだ。
ベッドに潜り込んで、電灯の延長ロープに手を伸ばす。
「………電気。点けておこうか?」
「いいわよ。眠れないでしょ」
「そうか」
3回引っ張って電灯を消す。
そんななか、梢が窓際へ歩くのがぼんやりと見えた。
「おやすみ。言っとくけどちゃんと息してるからな」
「わ、わかってるわよそんなこと! さっさと寝ちゃいなさいよ!」
おやすみっ、とぶっきらぼうに言うと、ぷいっと窓のほうへ顔を背けてしまった。
窓の外をぼう、と眺める梢の横顔を盗み見る。
―――いままで、ずっとああしてひとりで過ごしてきたのか。
この窓から、いったいどれだけの年月を眺めてきたのだろう?
だが、俺の思い込みか。
これまでと比べて、今日は彼女の横顔がほんのすこし、穏やかな気がした。







「そこじゃないわよ、もひとつ左」
「ここか? ………うっ、角取られた」
そんな夜から数日。
俺は、いまだ有力な手がかりひとつも手に入れられていなかった。
「それじゃあ次はここだ。―――昔の新聞とか、いろいろ調べてみたんだけどなあ」
「あら、そんなとこに置いていいの? じゃあ私はそこから4つ上ね。
 ―――ってことは、事件に巻き込まれたとかじゃないのかしら………」
「4つ上、と。ってああ、この流れは拙い………
 お前がそこんところ憶えてれば、話は早いんだけどな、っと。ここならどうだ」
「うーん………じゃあそこから2つ斜め右下。
 しかたないじゃない、憶えてないんだから―――」
とりあえずは、と近くの図書館に赴いて、過去にこの近くで梢という少女が
事件か事故に関わっていないかを古新聞でしらみつぶしに調べてみたのだが―――
結果は白だった。どんなに日付をさかのぼっても、そのような事件は起きていなかった。
うん、この盤上のように真っ白だ、くそ。
ちなみに今なにをしているかというと、皆さんご存知オセロゲームである。
梢は駒に触れないので、俺が梢に言われたとおりに彼女の駒を置いていく。
「2つ斜め右下―――うわ、やられた」
「ここまでくるともう逆転の可能性は無いわねー、私の勝ち」
もう、俺がどこに置いても、それをカウンターされてしまう。
梢の言葉どおり、俺の負けだ………燃え尽きたぜ、真っ白によぅ。
「うむ、オセロはもう飽きたぞ。他のゲームをしようではないか」
「他のゲームねぇ。将棋も、チェスも私に勝てなかったけど、他になにかあるのかな」
「囲碁とか」
「やだ。じじむさい」
「軍人将棋とか」
「そんなマニアックなの知らない」
「くう。休憩だ休憩っ」
だはあ、とクッションに倒れこんで、板張りの古ぼけた天井を仰ぐ。
「どうすっかなー………」
どうしても勝てないボードゲームのことはひとまず置いて、
いまだに見つからない梢の心残りの手がかりのことを考える。
梢がこの部屋に縛られているということは、少なくともこの室内もしくはこの近辺で
何かがあったと考えていいと思う。
だが、手始めに室内をしらみつぶしに調べてはみたものの、なにも見つけることはできなかった。
ではこのアパート近辺でなにかがあったのでは、と踏んで古新聞を読みあさってみたのだが、
結果は先述のとおりである。
近くの民家に空き巣が入って速攻で捕まっただとか、町民が力を合わせてドブさらいをしただとか、
アパート近くの森で住所不定の男の首吊り死体が発見されただとかの記事が見つかったぐらいだ。
ていうか、あの森で人死んでたのかよ。結構あそこで昼寝してるぞ俺。
「こうなるとあとは、アパート関係者に聞き込みするしかないかなあ」
天井を見上げたまま、そうぼやく。
「―――あの、ね」
「なんだよ。オセロの再戦か?」
「違うわよ。オセロはしばらくいいわ、貴方弱いんだもん」
「ごふっ」
こいつの毒舌はどうにかならんものか。
「うるさいな、ならなんだよ」
「その―――私が言うのもなんだけど。
 死んだ人は、どうなるんだろうって」
「どうなるって、そりゃ」
―――ぴんと来た。
死んで、そして現世から消えた人間はどうなるんだろう。
心残りを果たして、現世にいる理由が無くなったらどうなるんだろうと。
そう彼女は問うている。
「―――」
身体を起こして梢のほうを窺うが、長い髪に隠れて表情は見えない。
「ヘンだよね、とっくに死んでるってのに。
 前はそういうこと、ぜんぜん気にならなかった。
 むしろ、その逆だったのに―――」
「梢?」
俺の声に何かを感じ取ったのか、
梢はぷいと向こうを向いて慌てて言い直す。
「あ………その、気にしないでよ。
 ただちょっと、そうほんのちょっと不安なだけで。
 私だってずっとこのままは願い下げよ」
「なあ」
俺の声に、ん、と梢がこちらに振り向く。
今にも押し潰されそうな、昏い瞳が揺れている。
「心配すんなよ。きっと―――」
天井を指差して見せる。
「いいところだぜ。ここよりもっと賑やかでさ」
我ながら無責任なことを言っている。
だが、梢はそんな俺の言葉に頷いてくれた。
「ふん―――言われなくたってわかってるわよ」
彼女の顔に笑みが戻る。
どこか、寂しさが入り混じっているような。
「あーあ、早くこの辛気臭い部屋から開放されたいなあ」
余計な言葉もくっついてきたが。
「へっ、辛気臭い部屋の主ですが何か?
 見てろよ、すぐに追い出してやるからな」
「ふふっ」
「はははっ」
二人分の明るい笑い声が室内にこだまする。
「よしっ、休憩は終わりだ。次は何で勝負する?」
「あはは、何でやったって結果は同じじゃない」
「ぬかせ―――!」

俺の沽券にかけてこれ以上は負けられない。
さあ、もう一度ゲームをしよう。
手の内を知られぬように、ポーカーフェイスで。







「アンタも、奇特な人だねぇ………」
湯呑みの茶を啜りつつ、目の前のババア―――アパートの大家はつぶやいた。
アパートの管理人室、俺はこのババアとテーブルを挟んでいた。
ちなみに俺の前に湯飲みは無い。
数十分前。
俺は家賃を払いに行くという名目で大家のもとを訪れ、
金だけ受け取ってさっさと扉を閉めようとする大家になんとかすがりついて、
このアパート―――俺の部屋について、なにか昔に起きなかったかを問い質したのだ。
最初こそ何もありはしないと突っぱねていたのだが、
どんな過去があっても向こう半年は絶対住み続ける、
絶対にこの事は他言しないから、という俺の必死の頼みが通じて、
ようやくこの状況にこぎつけたというわけだ。
正直言って、これで手がかりが得られなければ詰みである。
アパートのわずかな住人達は、俺の問いに皆首を振ったのだから。
「どうせ、アレだろ。部屋ン中に何かいる気がするとか―――気味が悪いとか。
 アンタもそうなんだろう?
 半月経っても平然としてるから、アンタは大丈夫だと思ってたんだけどねえ」
「ええ………まあ。こちらもやっぱり気になるもので」
許せ、梢。
「しかし、わざわざ過去のことを聞きに来たのはお前さんが初めてだよ」
大家は湯飲みを置いて、煙草に火を点けて大きく吸い込むと、
隅にあった灰皿を引き寄せながらゆるゆると煙を吐き出した。
「関係ないとは思うけどねぇ。まぁ、あたしも黙ってアンタに売りつけた責任があるし。
 どうしても聞きたいって言うんなら、教えてやるよ。
 ………さっきの約束、忘れるんじゃないよ」
なにが責任だ、このババア。
「わかってますよ。それより、やはりなにかあったんですか?」
「あることはあったよ」
うわははは、さらりと言うんじゃねーこのクソババア。
「もう5,6年前くらいになるのかね、この近くの森で首吊り自殺があってさ」
「首吊り自殺」
それって、前に調べた古新聞の記事に載っていた、あれのことだろうか。
「でも、それが俺の部屋と何の関係が………」
「話は最後まで聞きな、簡単なコトさ。
 その自殺した奴は、アンタの部屋を使ってたんだよ」
「は?」
「迷惑はかけませんから、なんて言って部屋を引き払ったと思ったら、
 その数日後にブラン、だよ。いったいどういうつもりだか。
 結局死んだ後も迷惑かけてるじゃないかい」
「………。ええと。
 その首吊り自殺した人って、男ですよね?」
「何で知ってるんだい。なんだ、アンタもしかして部屋でそいつを見たとか
 言うんじゃないだろうね?
 見えるんなら、ついでに叩き出してくれないモンかねえ。家賃サービスするよ」
「いや、見えてないですし俺は拝み屋でもありませんから」
―――どういうことだ?
大家は俺の部屋に自殺した男の霊が憑いていると思い込んでるようだが、
そんなモノは今まで気配すら感じたことも無い。
あの部屋に居るのは梢だけだ。
その男と梢に、何の関連性があるのだろうか?
―――ダメ元で聞いてみよう。
「大家さん。その自殺した人って、どんな人だったんです。
 自殺する前に、何か変わったこととかは」
「はあ。本っ当に奇特な人だねアンタは。
 アンタの部屋でうろついてるかもしれない奴のこと聞いて、どうすんだい」
そういうと大家は、長く細く煙を吐き出しながら煙草を灰皿に押し付けた。
「まあいい。―――あいつはね、そりゃあヘンな奴だった。
 見るからに堅物そうでね、冗談のひとつも絶対言わないような奴だったよ。
 いや、言えないのかね。
 アンタそんなんじゃあ嫁の貰い手も無いだろう、
 家族を喜ばしてやる気はないのかいって説教してやったら、
 そんなものに興味はありませんし、喜ばす家族もいません、だとさ」
「はあ」
「だけどね。その後の台詞が奇妙だった。
 僕は、美しい髪にしか興味が無いんです―――
 なんてこと、真顔で言うんだよ。あの時のあいつの目は忘れらんないね」
大家の煙草に火が点る。
―――髪?
「で。それからすこし後、あいつ旅行か何かでしばらく部屋空けてさ。
 あたしはあいつが帰ってくるところにちょうど居合わせたんだよ。
 そのときの驚きといったら無かったねえ。
 笑いもしなかったあいつが、熱にでも浮かされたような笑顔してさ、
 やあ大家さん、ついに見つけたんですよ僕だけの奇麗なもの―――って」
―――奇麗な髪。
どこかで。
「あいつが部屋引き払って、近くの森で首吊ったのはそれから程なくしてさ。
 ああ、思い出しちまったよ、あいつの目。
 ………なに固まってんだい?」
「―――あ、いや。もういいです。ありがとうございました」
約束は約束だからね、あと半年絶対に住んでもらうよという
大家の声を背中で聞きながら、俺は足早に管理人室を後にする。
梢の、流れ落ちるような奇麗な髪。
美しい髪にしか興味を示さなかったという男。

有力な手がかりかもしれないというのに、
何故だか、嫌な予感がした。







相変わらず立て付けが悪く、
開閉する度に嫌な音を立てるドアを開いて部屋に上がりこむ。
「梢………」
リビングの引き戸を開け放つ。
部屋が、窓から差し込む夕日の色に満ちている。
「あ―――おかえり」
背中を向けていた梢がふわり、と振り返る。
彼女の長い髪が舞い上がり、軌跡を描く。
「―――」
「………どしたの?」
梢の言葉で、現実に引き戻される。
「―――おぅ。お前におかえりなんて言われたの、はじめてじゃないか?」
「え? そうだっけ………あ」
言いかけて、迂闊、とばかりに硬直する。
「そうかそうか、俺が帰ってくるの待っててくれたのか」
「ちっ、違うわよ! 貴方なんか待ってるわけないでしょうが!
 貴方が居ないほうが部屋が広くていいくらいだわ!」
「はいはい。それよりな」
うがー、とばかりに手をじたばたさせる梢をなだめつつ、
腰を下ろしながら、テーブルを挟んで向かいにあるクッションを指差す。
「心残りの件、手がかりっぽいのが見つかったんだ」
ぴたり、と梢の動きが止まった。
そそくさと向かいのクッションに移動する。
「―――本当に?」
ぐいっ、と身を乗り出してくると同時に、長い髪が揺れた。
「ああ、多分。その前に聞いておきたいことがあるんだが―――」
「な、なによ。もったいぶらないでよ」
「梢。お前の髪、すごく奇麗だよな」
「な―――」
間近に迫った不機嫌そうな顔にすっと朱がさす。
「いきなり何言い出すのよ貴方はっ!?」
おお。某映画もかくやというリアクション。
いまはフィギュアスケートの技のほうが有名だろうか。
梢はしばらくそのままで固まった後、
急にもじもじしながら自分の髪をいじりはじめた。
「………貴方に言われなくたって分かってるわよ。
 この髪が、私の唯一の自慢だったんだから」
「大事なもの、なんだよな?」
「―――うん、まあね」
まだ赤い顔のまま、彼女はどこか嬉しそうに頷いた。
「でも、それが一体どうしたのよ。
 私の心残りは髪の事だって言いたいの?」
「それも関係あるかもしれない。これは大家から聞いたんだが―――」
俺は、この部屋の5年前の住人のことを話して聞かせた。
奇麗な髪にしか興味の無かった。
奇麗な髪に対する異常な執着心を覗かせた。
きれいなかみを手に入れたとわらった。
そして最後に自殺を遂げた、ひとりの男のことを。

怪訝そうな顔が凍りついて、
何かを思い出してしまったような形を作って、
ゆっくりと顔を伏せて。

「―――ばか」
髪に隠れて見えない顔からそんな言葉が紡ぎ出されたのは、
俺の話が終わってしばらくしてからだった。
「やだなぁ―――貴方のせいで思い出しちゃったわ」
髪が、さざめくように震えている。
「―――つらいのか」
「ちょっとだけ。せっかくだから聞いてくれる?」
俺が頷くよりも早く、彼女は話し始めた。
「気づいたら―――ホントに、気づいたら倒れてた。
 地面が顔のすぐそばにあって、血がいっぱい出てて。
 頭の後ろから、じょきじょきって音が聞こえて。
 髪を切られてるって分かった。
 さっきも言ったよね、髪は私の唯一の自慢だって。
 それが勝手にとられちゃうのが許せなくて。
 悔しくて悔しくて仕方が無くて―――」
梢の伏せていた顔がゆるり、と上がる。
「私、そいつを追いかけたの」
その瞳は深く、吸い込まれそうに―――昏い。
「ずっと追いかけた。
 いつまでも追いかけ続けた。
 何度も返してって叫んだ。
 ―――この部屋まで追いかけた」
「梢」
「―――何回、返してって叫んだか知れない。
 そのうち、叫ぶのもつらくなってきて。
 考えるのもつらくなって。
 私はただ佇むだけになって。
 そしたら、ある日、あいつと目が合って―――」
頬をつう、と涙が流れ落ちる。
「………何で忘れてたんだろう、こんな大事なこと。
 私の心残りは、貴方の言うとおり髪のことだったのね」
涙をぬぐいながら、梢はゆるく笑った。
「―――でも、それじゃあ私の本当の髪はどこにあるのかな。
 私、あいつからまだ取り返してない―――」
「梢。もう―――いいんだ。ほら」
俺は身を乗り出して、梢にぐっと近づいて、

「あ―――」
梢の髪に、そっと触れた。
それは、初めてここに越してきたあのときにうなじに感じた。
あの夜に首筋に感じたのと同じ。
絹のような、なめらかで心地よい感触だった。
「さすがに自慢の髪だよな。本当に、奇麗だ」
「触れ―――るの?」
呆気にとられた表情のまま、梢の手が俺の手に伸びる。
だが、その指は俺の手に触れることが出来ずに輪郭をなぞるだけだ。
「もう、取り返しているんだよ。
 お前は―――あの時奪われた、この髪に憑いていたんだ」

梢はそのまましばらくの間呆けていたが、
やがてゆっくりと、自分の髪のひとふさを愛おしそうに撫で、
「そうか、ここにもう………あったんだ」
ほんとうにうれしそうに、笑った。

―――ああ、ダメだ。
せっかく今まで押し殺してきたのに。
「―――俺は」
「え?」
「俺は本当はお前に教えたくなかった………!」
抑えが、きかなくなった。
「心残りを果たしたら、いっちまうんだろお前。
 俺、本当はお前にここに居てほしかったんだ。
 この数週間、とても楽しかったんだ―――
 お前の居るこの部屋に帰ってくるのが楽しかった。
 お前と些細なことで口喧嘩するのが楽しかった。
 お前と勝てないゲームをするのが楽しかった。
 ―――お前と居るだけで、楽しかったんだ―――」
梢はぽかん、と絶句している。
当然だろう。
目の前の男は、手伝うといったくせに、
自分の心残りが果たされることを望んでいなかったのだから。
「それなら、なんで………?」
「………俺、あの男が首吊ったっていう木のところに行ってみたんだ。
 まわりには何にも残ってなかった。
 ―――なんにもだ!
 あの野郎、お前を殺して髪まで奪っておいて、
 とっくの昔に”いっちまってた”んだよ!
 犯人が自殺して罪から逃げて、
 被害者だけが思いを残して留まり続けてるなんて、そんなのおかしいだろ!
 だから―――!」
頬を温かいものがつたうのに気づく。
俺、もしかして泣いてるのか。
「だから、俺は―――」
頭の中がぐちゃぐちゃで、言葉が紡げなくなる。
梢の顔が見れなくて、俯いてしまう。
「―――バカよね、貴方」
「え」
穏やかな声に、顔を上げる。
困ったような、嬉しいような―――
それでいてとても儚げな、梢の顔があった。
「優しすぎるのよ貴方―――ばか」
「梢………」
「今だから白状するけど―――
 私だって、今までほんとうに楽しかった。
 貴方は私を、………拒まないで、いてくれた。
 貴方といると、まるで生きてるかのように振舞えた。
 貴方のおかげで、やっと私、解放された」
夕暮れの日差しに満ちる部屋の中。
ああ、梢の姿が―――すこしずつ、綻んでいく。
心残りが果たされた今、彼女を現世に繋ぎ止めるものはもう―――
「あ………もう、行かなきゃいけないみたい―――
 その前に………もうひとつだけ」
そういって、梢はつう、と顔を寄せた。
切なそうな彼女の瞳が、俺の瞳と交錯する。
「あの夜ね。本当は私、貴方に―――」
二人の距離が、短くなっていく。
「ねえ―――向こうは、いいところかな………?」
二人の瞳が、閉じられる。
「ああ―――きっと、いいところだぜ―――」

柔らかな唇を。
感じた気がした。


ありがとうと、聞こえた気がして目を開けた。
夕暮れに染まる部屋にいるのは俺ひとりで。
テーブルには、俺の涙の跡だけが残っていた―――







アパートの前の塀にもたれかかってぼうとしていると、大家に出会った。
「おや、アンタか。どうだい調子は」
「悪くないですよ。 ここの暮らしは快適です」
視線を空から外さずに答える。
「へえ? ………部屋のほう、大丈夫なのかい?」
「ええ。もうなんにも出ませんし」
「もう出ないって………やっぱりアンタ、見える性質だったのかね。
 いったいどうやってアイツを叩き出したんだい?」
「さあ。―――大家さん」
「なんだい」
「あの部屋にいたのは首吊った奴じゃないですよ。
 女の子でした。
 俺、この性質昔から大嫌いでしたけど―――
 やっと、受け入れられそうな気がします」
「………?」
「俺がこんな性質じゃなかったら、あいつに会えなかった」
大家はしばらく考え込んでいるようだったが、
やがて俺の横に並んで塀にもたれかかると、煙草を一本差し出した。
「なんだか知らないけど、まあお疲れさん。 呑むかい」
「………いただきます」

喫い慣れない煙草の紫煙が、喉を灼く。
ちょっと咳き込みながら吐き出された煙は、空にゆるりと綻んで、散っていった―――


END